今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

1108 新宮①(和歌山県)迷宮は胎内に通じて熊野詣

2023-07-24 14:50:01 | 奈良・和歌山
熊野路を廻ったのは25年も昔のことになる。再訪しようと何度か計画を練ったものの、果たせず四半世紀を経てしまった。以来、熊野を考えると決まって思い浮かぶ光景がある。それは新宮の、ごくありふれた街角に過ぎないのだが、「もう一度あの場所で街を見つめたい」と、渇望にも似た想いが湧いてくる地なのである。自分でも不可解なこの「想い」は何なのか、確かめたくて再び新宮にやって来た。そして独り、夕暮れの街角に立っている。



25年前の熊野行で、私はこんなメモを残している。《新宮の「浮島の森」で、国の天然記念物だという植物群落を見物して公園を出ると、デパートのビルらしい方向へ並木道が延びている。緩くカーブした道は繁華街に通じているのだろう、向こうに暗いトンネルが口を開けているのはアーケード街らしい。その光景を眺めた瞬間だった、シャッターが切られたかのように、佇まいが私の脳細胞に刷り込まれた。私は「熊野の秘密」を垣間見たのである。



DNAに刷り込まれているアミニズムが疼きだすと、日本人はなぜか熊野を思い出す。それは熊野が「胎内回帰の地」だからだ。捕らえどころのない不安に襲われ、頼るべき何者も失った時、絶望の中で人々は生まれ出た胎内に戻ろうとする。そして熊野に向かって歩き出すのである。迎える新宮では、荒っぽい熱に炙られた「熊野」がアーケードの暗闇でドロドロと燻っている。ここは胎内への導入路であり、アーケード街は熊野の胎内なのである。



中上健次は故郷・新宮を「火事にも人殺しにも、それぞれ捜せば、理由なり原因なりがあるだろうが、その本当の理由は、山と川と海に囲まれ、日に蒸されたこの土地の地理そのものによる。すぐ熱狂するのだ」と書く。私は未知の地に接する手始めに健次の『紀州』を選び、住井すゑの『橋のない川』を読み直したものだから、「大和における差別の悪習は、辺境の紀伊で増幅し、凝固した」といった思いに取り憑かれたらしい。だから私の旅は混乱した》



25年前の私は、初めての熊野に興奮していたのだろう、脈絡の乏しい推論を書きなぐっている。今回は25年分の老いによって、幾分冷静に街を眺められるのではなかろうか。そんな思いで探す「その場所」は、すぐに見つかった。デパートは規模を縮小してスーパーになり、道路をまたいで駐車場とつなぐ歩道橋が新設されたようだが、概ね私の記憶通りの佇まいである。アーケード街は仲之町商店街と言って、25年前と同じ姿で私を誘っている。



変わったのは、25年前よりいっそう人通りが少なくなっていることだ。この日が35度を超える猛暑だからか、あるいは市の人口が約25700人と、25年間で1万人も減ったせいだろうか。前回は覗き見ることができなかったアーケード街に足を踏み入れる。地方都市ではお馴染みの、寂れを滲ませるシャッター通りである。だが新宮藩の時代は武家屋敷だった地で、明治になって郡役所が置かれ、キリスト教会が建てられ、総合病院が開院した。



私が「熊野の迷宮」と思い込んだアーケード街は、地域の文化形成の中心だった。昭和38年にはアーケードが完成し、舗装された通りを水銀灯が照らす南紀有数の繁華街になった。そのころ市の人口は45000人を超え、「通りは人で溢れていた」と誰もが賑わいを懐かしむ。熊野川が運ぶ材木で潤った新宮は、道路整備が進み、木材集積の特権を失うと衰退が始まった。それでも速玉大社の鎮座地として、踏ん張っている街である。(2023.7.17-18)













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