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1121 宗谷岬(北海道)最果ては生きる労苦も果てしなく

2023-09-13 13:57:37 | 北海道
宗谷岬にやって来た。つまり列島の北端に来たことになる。穏やかに晴れ渡っているせいだろうか、海辺の小さな広場は「最北の岬」から連想される厳しさや寂しさを感じさせない。だが目を凝らすと、微かにサハリンの稜線が望まれ、国境の宗谷海峡を強く意識させられる地ではある。北極星にちなむ碑で、観光客がおどけたポーズで写真を撮り合っている。少し離れて立つ間宮林蔵と私は、彼女らは何をはしゃいでいるのだろうと訝むばかりである。



外務省が表示する「日本の領土」の最北端は、択捉島の北緯45度33分26秒だが、宗谷岬は北緯45度31分22秒、東経141度56分12秒に位置する。この緯度2分の違いは4キロ弱の距離になるらしい。北方領土が返還されたら、宗谷岬は「最北の地」を返上することになるけれど、誰もがそれを喜んで受け入れるだろう。北緯45度にはミラノやモントリオールといった大都市が位置する。樺太(サハリン)までは43キロしかない。



間宮林蔵は1808年、幕府の命で樺太に渡り、翌年、北樺太西岸を探検して樺太が島であることを発見した。小学生のころ、そうした雪と氷の世界の冒険に惹かれ、間宮林蔵や近藤重蔵らの伝記を盛んに読んだものだった。成長するにつれ、北方にも探検にも関心が薄れてしまい、私のこの地域への知識は10代で止まったままである。それでもギリヤークやツングースなどオホーツク文化圏の民族動静に触れたりすると、今も気持ちが騒ぎ出す。



そもそも東ヨーロッパの小集団だったスラブ民族が、どうしてユーラシア大陸の東端まで支配する、世界一広大な国家・ロシアになったのか、サハリンを遠望しながらそんなことが気になりだした。林蔵が探検したころは、樺太はロシアや清も手を延ばし切っていない、先住民が暮らす空白地帯だったらしい。徳川政権が本気で日本の支配下に置こうとすれば、それは可能だったかもしれない。つまり国の版図や国境など、その程度のものなのである。



岬広場とその背後に広がる丘は、全体が宗谷岬公園として整備されている。「岬」を感じるにはこの丘の上がいい。広々とした草原に様々なモニュメントが建ち、海峡や道北の暮らしを刻む。ひときわ目立つ白く翼を広げた鶴の姿の「祈りの塔」は、1983年にソ連軍によって撃墜された大韓航空機の慰霊塔だ。鶴の嘴は犠牲者269人が眠るサハリン島南西の海を向いている。石積みの旧海軍望楼や海域戦没者慰霊碑とともに、悲しい記憶である。



そうした公園で、若い男女が力強く肩を組み、風を受けながら宗谷丘陵を見つめている「あけぼの像」が実にいい。北海道の牛乳生産100万トンと飼育乳牛50万頭突破を記念して、1971年に建立された「天北酪農の夜明けを象徴する像」だという。「天北」とは明治政府が設置した「天塩国」の北部地域を言うのだろう。明治中期からの雑穀畑作の開拓農業は冷害に阻まれ、戦後、酪農に転換した努力が、ここまで実ったのだという切実な喜びの像だ。



像の青年男女が見晴るかしているのは、周氷河地形というらしいなだらかな丘陵が続く宗谷岬牧場だ。秋から冬は樹木さえ育つことができない烈風の地に、2000ヘクタールを超す牧場では、57基あるという風力発電が回転し、2500頭の肉牛・乳牛を飼育している。秋の気配が漂い始めた大地に放牧された牛たちは、残り陽を惜しみ浴びている。そうした牧場にエゾシカの群れも同居し、見事な角の牡鹿が私をじっと見つめている。(2023.9.8)












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