今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

111 上石原(東京都)・・・暮れなずむ軒先の柿熟れ残り

2007-12-12 21:12:08 | 東京(都下)

夕暮れは商店街がいい。八百屋があり肉を売る店があり、売り尽くそうと声を張り上げる魚屋がある。明かるく浮かび上がる店先はどこか懐かしく、見知らぬ街であっても温かい。「暮れなずむころ」という時間帯が曲者で、献立プランを楽しむ主婦や、慣れない買い物に右往左往するおじさんたちの顔つきが、いずれも寛いで見える。それはそれぞれに、暖かい部屋で待つ家族がいる(といいのだが)からなのだろう。

新宿と八王子を結ぶ京王線に、「西調布」という駅がある。調布駅の西隣りにあるからこの駅名なのだろうが、土地の名を大切にするなら「上石原」という駅にした方がよかった。京王線は概ね、甲州街道に沿って走っているので、駅前商店街を抜けると旧の甲州街道が続いている。「石原」は古い地名なのである。

調布には行く機会が多いのだが、このあたりまでは足を踏み入れたことがなかった。新宿から電車でわずか2、30分の距離であり、調布の繁華街からは歩いてだって行けるところなのに、びっくりするほど鄙びた雰囲気を残している街だ。住宅街を縫う路地は、明らかに畑道の痕跡を留めて緩やかに曲がっているし、実際、畑が点在してもいる。

この一帯も、かつての「布田五宿」の一つだったのだろう、駅前商店街から旧甲州街道に出て歩いてみる。可能な限り創造力を膨らませて眺めると、かつての宿場町の面影が全く消えているわけではない。さびしい街なのに、それなりの構えの寺が甍を競っているし、屋根など建物の一部に古い様式を留めた商家も残っている。バイパスが通じて人波が移ってしまうまで、そこそこ賑わった通りなのかもしれない。

そんな街道に面して「西光寺」があった。といっても特別な由緒のある寺ではないから、私も全く存在を知らなかったが、山門の脇に「新撰組局長 近藤勇」と大書された大きなブロンズ像が座っているので立ち寄る気になった。そういえば近藤勇は武蔵野国多摩郡上石原村の生まれである。生家は北方2キロほどのところにあって、墓所の「龍源寺」には確か胸像があった。

慶応4年、大政を奉還し江戸に籠った将軍・慶喜を守るため、若年寄格に任じられた勇は「甲陽鎮撫隊」を率いて甲府に向かった。その途上、西光寺に立ち寄り郷里の氏神に向かい戦勝祈願をしたのだという。調布市には「近藤勇と新選組の会」なる組織があるようで、没後130年を記念して「史実と史跡を末永く伝え、市の観光事業の一助に」と坐像を建立したのだとある。

「立ち寄っただけの縁で」などと軽々に扱ってはいけない。座像建立委員会の代表は「土方」という方らしいから、「歳三」の縁者かもしれない。真剣な思いが込められた事業だったのだろうと重々しく考えながら説明文を読み、「新撰組はなぜこんなに人気があるのだろう」と改めて不思議に思った。

アラカンの鞍馬天狗世代である私などにすれば、新選組は敵役であり、チャンバラごっこの切られどころであった。しかし例え時流に取り残されようとも、ひたすら一途に生きたことが多くの人を惹きつけるのだろう。それはそれで歴史のヒーローとなって不思議ではないが、故郷に錦を飾った勇が行く先は、現代の駅前商店街を行き交う人々のように、家族の待つ暖かな家ではなかったということが痛ましい。(2007.12.11)

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