それはもう、暑い日だった。鳥羽から朝熊山のドライブウエーを回って内宮に詣でる。私には4度目の伊勢になるが、初詣を除く3回はいつもよく晴れた暑い日に巡り合わせている。だから伊勢の記憶は「暑い!」に尽きる。梅雨明け直後の3連休というこの日は、これまでで最も暑かった。それでも「おかげ横町」は大変な人出で、日本人のお出かけ好きには圧倒される。かく言う私たち中学の同級生5人組も、雑踏形成に一役買っている。 . . . 本文を読む
柳原義達という彫刻家がいる。すでに故人ではあるが、現代日本の具象彫刻を代表する作家であることを今の私は知っている。しかし津市の三重県立美術館に併設された柳原義達記念館で《カラス》と《秋》の双方に出会うまで、私の中では「あのカラスの彫刻家」と「釧路・幣舞橋の四季の像の作者」がつながってはおらず、その時は「ああ、そうだったのか!」と声に出して得心したのだった。こうした出会いも旅の醍醐味なのであろう。 . . . 本文を読む
お爺さんに抱かれた幼女はじっと私を見つめ、やがてその小さな手を振って微笑んだのである。何と可憐な仕草か! 思わず一枚撮らせていただいた。小雨に濡れる桑名城跡。孫と散歩のご老体には至福の昼下がりであったろうに、得体の知れない男が近づいて来たためあわてて宝物を抱き上げた、といった風情だった。まあ、そう警戒されても仕方のない濡れ鼠の私であったが、無垢な瞳は私の《善》を見抜き、好意を寄せてくれたのである . . . 本文を読む
藤原俊成という名前はもちろん知っている。ずっと昔の雅な時代、偉い歌詠みの中の大きな名前として教わった。そして息子は、さらに高名な藤原定家ではなかったか。しかしこの程度の知識しかないものだから、その俊成さんが蒲郡の海辺で、沖合を見つめていたのには驚いた。平安時代の終わり近く、三河の国司になった俊成は、蒲郡の開発に当たったと『吾妻鏡』に書いてあるのだそうで、そのことに感謝する840年後の住民たちが建 . . . 本文を読む
街と個人に《相性》はあるだろうか? 住人にしてみたら愚問であろうが、行きずりの旅人にとっては《ある》のかもしれない。私の場合、名古屋はどうもいけない。何度行っても長居をする気分にならず、街歩きを楽しんだことがない。そこで、今度ばかりは意を決し、中心部(と思われる)あたりを歩いてみる。熱田神宮にご挨拶し、地下鉄に乗って名古屋城へ行き、大通りを下って栄町界隈を探検したのだ。さて・・・。
かつてどこ . . . 本文を読む
月が出ていた。十四夜の月だった。月光文明のアラブ圏では、女性への最高の褒め言葉は「十四夜の月のように・・・」と例えることなのだそうで、確かに十五夜より美しさに深みがあるかもしれない。ここは芭蕉の故郷・伊賀上野。東京ではまだ宵の口だろうに、すでに夜更けたかのような仄暗い静寂の中、町屋の甍を白々と、十四夜の光りが包んでいる。350年ほど昔、若い芭蕉が眺めた同じ光を、私は浴びながら歩いている。
旅 . . . 本文を読む
不破関跡を彷徨してなお、日は高い。駅への帰路を外れ、「開戦地」という案内に誘われるままJR東海道線を越えて「天下分け目の」決戦場に迷い込んでしまった。線路の切り通しがあたかも古代の関跡と、中世の古戦場を切り分けているような構図だ。関ケ原は確かに「原」ではあるが狭い。こんなところで大合戦があったというのだから、凄まじい光景だっただろう。原を流れる筋の中には「黒血川」などというリアルな名前もある。
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中世以降ではなく、古代に惹かれるというのが私の性癖なので、JR東海道線の関ケ原駅で下車したのは古戦場に関心があったからではない。不破関の跡に立ってみたかったのだ。しかしそこは見事に滅んでいて、どこに立つべきか見当がつかない。東山道の分岐点あたりで「余りにも遥かになりぬ不破関越えにしあの日吾の名は何」と、思わず歌が口を衝いて出た。1300年ほどの昔、関を通過した私の祖先がいたように思えたのである。 . . . 本文を読む
「日本の真ん中」を標榜する街はいくつもあって、長野には「中心地点」をご神体と崇め、本殿の床に穴があいている神社まである。「真ん中」をどう捉えるか、いろいろあるのだろうが、美濃もそう主張する権利はある。事実、日本の人口重心は長く岐阜県内を僅かに移動しているのだそうで、ここを境に東西日本の人口は拮抗している。だから大垣が、天下分け目の関ケ原の合戦に巻き込まれたのは致し方ない、というのはこじつけである . . . 本文を読む
訪れるたびに、岐阜は「賑わいと静寂のバランズがほどよく均衡した、暮らし良さそうな街だ」と感じる。今回の訪問では、長らく続いていたJR岐阜駅前の整備事業がほぼ完成に近づき、モダンなコンコースが姿を現したことでそのことをなお強く感じた。駅前から金華橋通と長良橋通が北に延び、その間の柳ヶ瀬界隈はやや活況が失せて来ているようではあるが、金華山まで足を延ばせば緑陰と長良川の清流が迎えてくれる。よくできた街 . . . 本文を読む
三岸節子という画家がいなければ、私が起(おこし)という地名を知ることも、ましてや実際に訪ねてみることも無かったろう。起は愛知県北西部にあって、岐阜との県境を流れる木曽川左岸の集落だ。江戸時代、東海道・宮宿と中山道・垂井宿を結ぶ脇往還・美濃路が開設され、起宿が起こった。明治38年、三岸節子(旧姓・吉田節)はこの土地の名家で毛織物業者の4女に生まれた。生家跡には今、一宮市三岸節子記念美術館が建つ。
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冒頭に掲げる写真は、筆者にとってその旅での「この街の1枚」である。その街を初めて(あるいは久しぶりに)訪ね、ぶらぶらと歩きながら感じた街の雰囲気を、最も端的に表現できたと考えるカットを選んでいるつもりだ。しかしそれは、あくまでも私という他国者が、短期間に体験した勝手な感想であって、土地の方々にとっては「とんでもない勘違い」かもしれない。さしずめ一宮の寂しい1枚は、そんなお叱りを受けそうである。
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鳥羽湾をクルーズする贅沢な旅から帰って、悔やんでいることがある。九鬼水軍の城跡と鳥羽の市街地を歩いてみなかったことだ。水族館前の高台に市役所があって、そのあたりが城跡だと後に聞いた。訪ねていれば、海上から眺めた風景とはいささか異なる街の景色に出会えたかも知れない。そんな思いは残るものの、九鬼一族がこの複雑な海を支配したのは遠い昔のこと。現代の殿様といえば真珠王・御木本幸吉翁か、水族館の人気者ジュ . . . 本文を読む
遠い昔、鄙びた漁村が点在していた入り江で、「こここそアマテラスの地」と時の天皇が霊感を受けたために、この土地の運命は驚天動地の変化をきたした。おかげで神道とか神明信仰ということはさておき、古代以来の伝承をかたくなに守る拠点としての伊勢神宮は、日本人の心の奥を見詰める場として貴重な存在になった。もし「地名の重み」を計量化する方程式が編み出されたら、「伊勢」は国内最重量級であろう。
伊勢神宮は天照 . . . 本文を読む
三重の「津」という市名は、どうにも座り心地が悪い。「Tsu」で終わってしまう響きは素っ気がなさ過ぎて、話の接ぎ穂が見当たらないような気分になってしまうのだ。土地の人は「日本で一番短い地名だ」などと言って結構気に入っているようだから、余所者がつべこべ口を挟むことではない。しかし「津」とは「湊」のことであろう、天下の一般名詞を、そのまま自分たちの固有名詞にするなど、横着なのか工夫が足りないのか。
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