野鳥・旅行・観光・テニスなど趣味の写真ブログ
ROSSさんの大阪ハクナマタタ



天気が良かったので早起きし、現在の堺筋を恵美須町から日本橋まで散歩してみることとしました。

地下鉄大国町駅前交差点



地下鉄大国町駅から今宮戎神社の前を通って恵美須町交差点を左に曲がり、堺筋に出ると日本橋でんでんタウンと呼ぶ電気屋街です。

今宮戎神社



手前にある「阪神高速1号線」えびす町入り口付近は、かつて鼬川(いたちがわ)が流れ、そこに架かっていた名呉橋から南が和歌山に通じる紀州街道と呼ばれる幹線道路でした。

阪神高速1号線えびす町入り口



この紀州街道は、もともと船場から住吉大社への参道で、当初住吉街道と呼ばれていましたが、さらに紀州まで続いていることから、紀州街道と呼ばれるようになったと言われています。

恵美須町交差点の南にある通天閣



なお紀州街道の北側を堺筋と呼ぶのは、大阪築城に際して秀吉が堺の商人をこの地に移住させたことから名づけられたようです。



1806年の「紀州往還見取絵図」では、日本橋が紀州街道の起点となり、1885年の「国道表」では、高麗橋通と堺筋の交差点である現在のザ・北浜タワーの場所が起点となっているので、起点はだんだん北上しているようです。

中央大通りからみたザ・北浜タワー



阪神高速1号線の高架のすぐ北側、日本橋5丁目付近の横断歩道から北浜方面を見ると、ザ・北浜タワーが堺筋の正面に見えています。



江戸時代の堺筋は、道頓堀に架かる日本橋より南側を長町と呼び、南の名呉橋まで1丁目から9丁目に分けられていました。

1691年の古地図



江戸末期から明治初期にかけての紀州街道沿いには、旅籠屋・木賃宿が並び、古着屋、薪炭商、下駄屋が軒を連ねていた下町でした。

1842年の古地図



またその裏側は、大坂最大の貧民街だったようで、長町=スラムというイメージが次第に定着していったようです。

日本橋3丁目交差点から南海難波駅を見る



1792年、そのイメージを払拭するためか、北の長町1丁目から5丁目(現在の日本橋3丁目まで)が日本橋筋と改称されましたが、浪速区の区域(現在の電器の街)だけは長町のままとされています。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )