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昨日の記事からの続きですが、1167年に厳島神社の造営を決意した清盛は、京都から厳島を目指して淀川を下った船が最初に停泊する輪田泊に近い福原(神戸市)に別荘の造営を着手しています。



この時代の厳島神社参詣は、輪田泊から船に乗って瀬戸内海を下ったようですが、1169年頃に完成した福原別荘は、春日大社に参詣する藤原氏が造った宇治の別荘(平等院はその一部)を真似たようです。



さて、1174年、清盛は後白河法皇(1127~1192年)とその寵姫滋子とともに福原を経て厳島神社に参詣していますが、恐らくこの頃に社殿がすべて完成したのでしょう。

東廻廊と祓殿の屋根



上皇(天皇)がこれほど遠方にある神社に参詣することは前例が無く、同行した清盛は得意の絶頂にあったのではないかと思います。

金灯篭



1178年には、後白河法皇の皇子、高倉天皇(1161~1181年)の中宮(皇后)となった娘、徳子(建礼門院、1155~1214年)の安産祈願のために厳島に奉幣しています。

高舞台



そのご加護か、同年皇子(後の安徳天皇)が無事に生まれ、翌1179年、平清盛は念願の天皇の外祖父となった喜びから2回も厳島神社に参詣しています。

東廻廊



1180年には、皇子の安徳天皇への譲位を決めた高倉天皇が春と秋の2回、厳島神社に参詣していますので、6年間に2代の天皇が続けて参詣されたことになります。

祓殿の床



通常、天皇位を譲位した後の神社参詣は、賀茂社や石清水八幡など京都周辺の社格の高い神社に決められていましたが、厳島神社を選んだのは、舅の平清盛が強く要請したからと伝わっています。



平清盛は、1160~1180年までの20年間に10回厳島神社に参詣した記録の残っていて、厳島神社の巫女(厳島内侍)に産ませた娘(御子姫君)がいたことが知られています。

遠くに見える千畳閣の屋根



1181年、死期が迫った清盛は、その実娘(御子姫君、後の冷泉局)を後白川法皇の後宮に入れ、法皇との間に皇子が誕生することを願っていたようです。

右は能舞台



しかし、さすがの平氏もこの頃から一門の上に暗雲がたれるようになり、同年夏に以仁王の挙兵、福原への遷都強行、伊豆で源頼朝が挙兵、再び京都への還都、南都の焼き討ちがあるなど時代は平家滅亡に向けて急激に動きはじめています。

参考文献:平清盛  五味文彦著


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