野鳥・旅行・観光・テニスなど趣味の写真ブログ
ROSSさんの大阪ハクナマタタ



明治に入り、長町6丁目から9丁目も日本橋筋と名称変更され、スラム街を連想する名は消えましたが、長町裏は、依然として大阪一円に知れ渡る貧民窟だったようです。

1882年(明治15年)の大阪地図



この地域は、1886年(明治19年)頃になってもコレラなどの伝染病が大流行するなど、不衛生な貧困地区のまま放置されていました。

現在のアーケード



1900年(明治33年)、第五回内国勧業博覧会(内博)を天王寺一帯で開催する勅令が出され、天皇が行幸する日本橋以降の堺筋(日本橋筋)の整備にスポットライトが当てられます。

日本橋筋の西側



その内博を契機として日本橋筋付近の整備が一挙に進み、裏通りの不潔住宅密集地帯が撤去され、住民は国鉄関西線の南(飛田付近)に強制的に移動させられています。

日本橋3丁目南にはホテルも



日本橋筋には、勧業博会場へ通じるアプローチ道路が建設され、1906年に内博は成功裏に終了、このイベントが日本橋筋の都市整備に果たした役割は大きかったようです。



1912年には、中央に市電が通る大阪の南北幹線として道幅が21.8mに拡張され、1923年日本橋3丁目に松坂屋百貨店(現在の高島屋東別館)が進出しています。

高島屋東別館



日本橋筋の東側には、黒門市場がありますが、黒門市場については以前のブログ記事で紹介したことがあります。



また、日本橋筋には大正初期から古書店ができはじめ、1935~1943年頃には60軒以上もあったようですが、ほとんどが戦災を受け、戦後の復興は進まなかったようです。

千日前通りとの日本橋1丁目交差点



日本橋商店街が、ラジオの販売からスタートした電器の専門店街になったのは戦後ですが、今では、大型量販店におされ電気店の姿が次第に減っているようです。

1953年(昭和28年)頃の地図



さて、千日前通りを過ぎて道頓堀に架かる日本橋まで来ると、「とんぼり リバーウォーク」の整備工事が完了していて橋から直接リバーウォークに下りられるようになっていました。


コメント ( 3 ) | Trackback ( 0 )