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金峰山寺は、7世紀末にこの地で修行した役行者が堂を建てた場所とされていますが、894年に醍醐寺を開いた聖宝(しょうぼう)が再興し、平安期には法皇、上皇、皇族、貴族などの参詣が相次いでいます。

金峰山寺仁王門(重文)



後醍醐天皇の第二皇子、大塔宮護良親王(もりながしんのう、1308~1335年)は、尊雲法親王とも呼ばれ、1327~1330年天台座主(天台宗のトップ)に就任、比叡山根本中堂に下りる階段の上に石碑が残っています。



護良親王は、天台宗のトップという立場にありながら武芸を好み、日頃から鍛練を積む座主だったと太平記にあるので、父親(後醍醐天皇)の性格をかなり強く受け継いだようです。

蔵王堂(国宝)



1331年、後醍醐天皇の討幕運動(元弘の変)が起きると護良親王は還俗して比叡山から参戦、反幕勢力を募り、十津川、吉野、高野山などを転々として2年にわたり鎌倉幕府軍と戦い続けています。

蔵王堂の上



1333年、後醍醐天皇(1288~1339年)が隠岐西ノ島を脱出すると、またもや今度は吉野から参戦、鎌倉幕府の二階堂貞藤の軍勢を引き受けてここでも戦っています。

後醍醐天皇が配流されていた隠岐西ノ島の黒木御所跡



現在の蔵王堂の南側には、四本桜の前庭があり護良親王が鎌倉幕府軍との戦いの前に最後の酒宴を開いた場所と伝わっています。

四本桜の前庭



その戦いのとき、包囲された護良親王の身代わりとなって戦死した村上義光の忠死記念碑が蔵王堂のある台地の南側に残っていました。



村上義光の犠牲で生き延びた護良親王は、建武の新政で征夷大将軍兼兵部卿に任じられて上洛、征夷大将軍を望んでいた尊氏は、不本意な鎮守府将軍となっています。

蔵王堂前



護良親王は、関東の足利勢を牽制するため、弟宮の義良親王を多賀城に、その補佐として北畠顕家(1318~1338年)を陸奥将軍府に置くアイデアを実行、後に北畠顕家は陸奥の軍勢を率いて足利軍を京都から一時撃退しています。

吉野朝廷跡



しかし強引な護良親王は、後醍醐天皇から征夷大将軍を解任され、1334年には鎌倉へ送られて幽閉の身となり、最後は足利直義の命で殺害されています。


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