万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

日米の自己矛盾が交差する為替条項問題

2018年10月16日 14時09分08秒 | 国際経済
 先日、ムニューシン米財務長官の発言が、アメリカとの間で新たな通商協定の締結に向けて交渉を開始した日本国において強い関心が寄せられることとなりました。その発言とは、「われわれの目的は為替問題だ。今後の通商協定にはそれらを盛り込みたい。どの国ともだ。日本だけを対象にしているわけではない」というものです。

 同発言に日本国側が浮足立ったのは、自国通貨安への誘導を目的とした政府による為替相場における市場介入の禁止、即ち、自国の対外通貨政策の権限の放棄を意味するに留まらず、実質的に為替相場誘導効果のある金融政策にまで制約を課せられることを怖れたからと説明されています。アメリカからの為替操作国認定を回避するために、既に日本国政府は市場介入を手控えていますので、後者に対する懸念の方がより強いのでしょう。とはいうものの、この日米の構図、深く考えて見ますと、両国による自己矛盾合戦の様相を呈しているように思えます。

 まず、為替条項を通商相手国に要求しているアメリカ側の自己矛盾を見てみましょう。トランプ政権の基本的なスタンスは、自由放任的な自由貿易主義やグローバリズムに対する懐疑と否定にあり、国境における政府の政策的介入を認めています。現行の通商体制では、巨額の貿易赤字のみならず、アメリカ国民の雇用機会の喪失といったマイナス影響を受けるため、関税率の引き上げを中心とした防御的政策に訴えるようになりました。防御面とはいえ、国家の戦略的政策手段の行使を認めるスタンスからすれば、他国に対しても、国境における国家の対外的権限の‘自由’は認められるべきこととなります。乃ち、日本国を含む通商相手国に対して為替政策を禁じ手とすることは、同分野における政府による戦略的権限行使を是とするアメリカにとりましては自己矛盾となるのです。

 それでは、為替条項に反対している日本国側には、どのような自己矛盾があるのでしょうか。日本側の自己矛盾とは、アメリカのそれとは表裏の関係となります。日本国側の基本的なスタンスとは自由貿易主義の堅持であり、この立場に立脚する限り、外国為替市場への介入を含むあらゆる政府介入は否定されるべきこととなります。自由貿易主義とは、国境を越えた民間の自由な交易や取引に任せれば、国際競争力において劣位にある産業は相互に淘汰されるものの、予定調和的に相互利益が生じるとする説です。この立場を貫けば、政府が輸出拡大を目的に戦略的に自国通貨の相場を誘導する外国為替市場における市場介入も禁じ手となります。手段にこそ違いはあれ、輸出国の対外通貨戦略は、防御面として理解されるアメリカの関税戦略とは逆の攻撃的戦略なのです。副次的効果としての為替相場への影響を与える金融政策については、その主たる政策目的によって判断されるのでしょう(日銀の量的緩和政策の主たる目的は国内のデフレ対策にあるため、その判断は微妙…)。かくして、自由貿易主義を唱える日本国もまた、戦略的な政府介入を擁護している点において自己矛盾を来しているのです。

 以上に述べてきたように、為替条項をめぐる日米の応酬は、双方の自己矛盾が交差する奇妙な構図として描くことができます。本音と建前との巧妙な使い分けと見なすこともできましょうが、通商交渉を徒に混乱させる要因となることも否めません。そして、こうした問題は、日米の二国間に限定されているわけでもないのです。将来に向けてより内外経済の整合性が高く、安定した通商体制を構築してゆく上でも、まずは、国内経済を護るための保護主義、並びに、全人類の生活レベルの向上に資する可能性を有する自由貿易主義の両者に対し、共に正当なる立場を認めてゆくべきなのではないかと思うのです。

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日本人は‘狂った民族’だったのか?-天皇中心の政教一致体制は外来では?

2018年10月15日 13時52分50秒 | 日本政治
第二次世界大戦において、連合国諸国は敵国であった日本国の国民性についての調査・分析を行っております。その際の報告として知られるのが、日本人狂信者論です。日本人は、天皇のためならば命をも投げ出す狂った民族であるとする…。

 この説は、‘日本人は合理的精神に欠けている危険な民族’とする連合国側の共通認識へと繋がり、日本民族抹殺の容認をも含意しかねない危うさをも秘めたのですが(民間人をも対象とした全国的な空襲…)、そもそも、宗教的最高権威にして政治権力の頂点に立つ天皇の姿は江戸末から明治期において海外から導入されたのであって、伝統的な天皇と国民との関係とは異質なものであったように思うのです。

 戦国期や江戸期に日本国を訪れた宣教師、旅行家、貿易商等の日記や記録を読みますと、日本人に対する見方は上記のものとは著しく違っています。戦国期のキリスト教布教にあって、多くの宣教師はキリスト教の奇跡や秘蹟を安易に信じようとしない日本人の‘合理性’に悪戦苦闘しましたし、高僧との宗論に敗北して棄教や転向をしてしまう宣教師も少なくありませんでした。戦国期に一大勢力となったキリシタン大名の登場も、キリスト教の教義に感銘を受けて同教に帰依したというよりも、あるいはイエズス会士と同様に武器弾薬を得るための合意的判断であったのかもしれません。また、市井の人々の生活ものんびりとしており、正直で朗らかな民族であったそうです。天皇に対する信仰も、遠き都にて御簾の内におわします尊いお方とする漠然としたものに過ぎず、世俗の世界と切り離されていたからこそ、その神聖で高貴なイメージが保たれていたのでしょう。

日本国の歴史的な国家体制を見ましても、建国の祖である神武天皇は、即位以前にあっては自ら兵を率いて東征に向かい、即位に際して善き国造りを誓いますものの、即位後にあっては凡そ天神地祇を祀った記録しか記紀には残されておりません。鎌倉幕府の成立以前に遡っても、摂関政治や院政のみならず、聖徳太子が推古天皇の摂政であったように、古代からして祭政分離の傾向が強く見られるのです。津田左右吉も指摘しておりますように、今日に至るまでの日本国の国家体制は、祭政分離が基本原則であって、建武の親政など天皇親政の期間は数えるばかりしかないのです。

ところが、明治の時代の到来とともに、国家体制は、‘王政復古の大号令’を以って明治の代となり、明治憲法が天皇を統治権を総攬する間接的な立場に置きつつも、祭政一致へと大きく転換します。ここで云う‘王政復古’とは、述べてきた‘祭祀長’としての‘天皇’ではなく、7世紀末に唐に倣って導入されたとされる律令体制下の‘天皇’を意味するとされ、いわば、中央集権的な帝国スタイルへと‘回帰’したのです。

もっとも、帝国型の国家体制は中国大陸の専売特許ではなく、その多くは、宗教的権威と政治権力との皇帝を頂点とした一致が見られます。ローマ帝国の系譜をひくヨーロッパ近世の絶対王政も然りです。近代以降は、宗教に加えて共産主義といったイデオロギーが加わりますが、政教一致体制に対する強い志向性は、むしろ、西欧諸国の政治体制の特色と言えるのかもしれません。政教分離の原則を打ち立てたフランス革命でさえ、カトリックに替って別の思想を国家イデオロギーの座に据えたに過ぎないかもしれないのです。

明治期における日本国の近代国家化が、天皇を中心とした政教一致体制と共に誕生した点には注意を要するように思えます。この時にこそ、神の系譜に由来する天皇の権威が世俗の統治権と結びつけられる形で成立し、天皇は国家の唯一の頂点として、全国民からの忠誠と信仰を一身に集める存在となったからです。そして、日本人の元よりの気質が純朴で信仰心に厚かったからこそ、天皇の発言や行動が一夜にして日本国の慣習を一変させるほどの威力を発揮したのでしょう。そして、これらの変革は、日本国民の要望に応えたというよりも、明治維新を背後から支えた国際勢力の意向に沿ったものであったと推測されるのです。

このように考えますと、戦時における連合国の日本人狂信者論は、実のところ、自らが自らを批判するような側面を持ちます。宗教や思想に起因する狂信的な行動は、フランス革命時の大虐殺にも見られますし、そして今日でさえ、行き過ぎたグローバリズムを含め、権力志向の強い宗教やイデオロギーは、信者や信奉者を思考停止状態の‘狂信者’にしながら、自覚なきまま既存の国家や社会を容赦なく破壊し続けています。皇族の行動が伝統破壊的である理由も、その行動原理が、日本固有の神道ではなく、国際性を有する別の宗教やイデオロギーに基づいているからなのかもしれません。そして、目下、皇室の存在が社会的混乱を引き起こし、日本国を不安定化している現状に鑑みれば、日本国は、本来の自国の伝統的な祭政分離の国家体制に立ち返り、天皇を政治から完全に切り離し、国家祭祀を専らとする公の地位とすべきなのではないかと思うのです。

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靖国神社から日本国全体に広がる問題性-皇族との軋轢

2018年10月14日 13時47分57秒 | 日本政治
 靖国神社の小堀邦夫宮司の問題提起は、マスメディアの報道方針によってか、天皇の靖国参拝問題に焦点があてられています。しかしながら、その一方で、捉えようによってはより深刻、かつ、本質的となる、皇室と神道との間の軋轢にも言及しておられます。それは、来年5月1日に即位を予定している新天皇・皇后に関する懸念です。

 この問題に触れている小堀宮司の発言とは、「もし、御在位中に一度も親拝なさらなかったら、今の皇太子さんが新帝に就かれて参拝されるか?新しく皇后になる彼女は神社神道大嫌いだよ。来るか?」というものです。特に重要となるのが後半の部分であり、この発言から、神道界では東宮妃が神道を毛嫌いしていることが既に周知の事実として認識されていることが分かります。そして、それは、今般の事件が、靖国神社と皇室との二者間の関係に留まらず、神道全体、否、全日本国民に関わる問題であることを示しているのです。

しばしばマスコミでも報じられるように、東宮妃の入内は、創価学会の強力なバックアップによって実現したとされています。父親である小和田恒氏が外務省高官であり、本人も同省に勤務していたこと、並びに、創価学会が政治支部である公明党を擁している事実に鑑みますと、‘自由恋愛’を装いながらも‘政略結婚’と見なされても致し方ない側面があります。ここに、神道における最高祭祀長としての天皇の地位が、婚姻を介して新興カルトの影響を受ける、あるいは、侵食を受けて変質させられるという、一般の日本国民にも影響が及びかねない忌々しき問題が発生したのです。たとえ日本国憲法にあっては象徴天皇と定められていたとしても、二千年を越える日本国の歴史において天皇の地位を一貫して根底から支えてきたのは、神道に他ならないからです(仏教伝来後は神仏の擁護者ともなった…)。

創価学会とは、諸外国ではカルト教団に認定されている集団であり、かつては、オウム真理教と同様に、‘総体革命’を成し遂げて政治権力を手にした暁には、創価学会の教義を国教化するという大胆な目標を掲げていました。今日では、革命的な手段は放棄されたそうですが、その代替手段として東宮妃入内が創価学会の思惑によるものであるとしますと、日本国支配という最終目的は変わらず、天皇、あるいは、皇室を‘乗っ取る’という別の手段に切り替えたに過ぎないのかもしれません。‘美智子さん’のご成婚に際してもカトリック信者疑惑が常に付きまとい、関連する噂が絶えませんでしたが、東宮妃についても新興宗教団体の‘隠れ信者’である可能性が高いのです。東宮自身もまた、ブラジル訪問に際して同組織が発行する聖教新聞に写真付きの記事が掲載されており、東宮家そのものが創価学会に取り込まれているのかもしれません(ブラジルに関しては、秋篠宮家の‘眞子さん’が頻繁に訪問しており、この点にも不自然さが漂う…)。

同教団は、政界、官界、財界、学界、マスメディア、芸能界といった各界の要所に会員を配置し、さらに、同教団の国際志向、並びに、親中・親朝鮮半島の姿勢も甚だしく、外国人信者の増加や創価学会インターナショナルの活動に加え、国連等の国際機関にも積極的にアプローチしているようです。このように最大の新興宗教教団とされつつも、創価学会員数は、多く見積もっても人口の2%程度ではないかとする推計があり、残りの圧倒的多数の国民は同教団の信者ではありません。にも拘わらず、皇室が創価学会のコントロール下に置かれている現実は、皇室と一般国民との距離を広げるのみならず、延いては、一般国民の天皇に対する崇敬心を急速に失わせ(皇室が一教団に私物化されたとする認識…)、やがて天皇の存在意義や正統性をも根底から覆しかねない事態となりましょう。

上部からの伝統破壊や‘多人種・多民族化’の現象は、日本国の皇室に限らず、近年、英王室など他の諸国の王族にも共通して見られますので、創価学会のさらにその奥には、何らかの全世界的なネットワークを有する国際組織の存在が想定されます。あるいは、既に皇室そのものが、明治維新を機に組織の‘支部’と化していたのかもしれません。政治性をも帯びた皇室問題とは、もはや日本固有の問題ではないのでしょう。このように考えますと、小堀宮司の発言は、日本国民もまた、国際的、並びに、世界史的な視点からこの問題に対処してゆかねばならない時期に差し掛かっていることを、自ずと世に知らしめたようにも思えるのです。

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天皇慰霊の旅が抱える霊魂観問題-靖国神社との軋轢

2018年10月13日 14時18分52秒 | 日本政治
靖国神社の小堀邦夫宮司が職を辞されることとなった事件は、それが所謂‘舌禍’というものであっただけに、その発言内容と共に国民の関心を集めております。録音されていた音声記録のリークが発端であるために、何やら不穏な空気も漂うのですが、小堀宮司の発言には、実のところ、重要な問題提起が含まれているように思えます。

 問題とされた発言の一つは、「陛下が一生懸命、慰霊の旅をすればするほど靖国神社は遠ざかっていくんだよ」というものです。その意味するところは、靖国神社と天皇慰霊の旅との間に横たわる深刻な霊魂観の違いであり、両者が両立し得ないことに気付いた同宮司の強い危機感を読み取ることができます。今日、天皇慰霊の旅については、マスメディアが礼賛一辺倒の報道に徹しているため、その問題点については見過ごされがちですが、深く考えてみますと、両者の間には埋め難い溝が横たわっているのです。

靖国神社とは、日本国に殉じた将兵の方々の御霊が安まる処であり、いわば、亡き人々の魂が集う社と概念されています。たとえ異国の地で朽ち果てようとも、魂のみは亡骸から離れて懐かしき母国に帰り、戦友達と共に九段の靖国に祀られると、多くの日本国民が信じてきたのです。こうした霊魂観なくして靖国神社は存在し得ないのですが、天皇の慰霊の旅は、この観念とは相いれない側面を持ちます。それは、霊魂とは、亡くなった場所、あるいは、遺骨の存する場所に残るとする概念を前提としているからです。唯物論とは一線を画し、両者とも霊魂存在論に立脚しながらも、この相違点に注目すれば、小堀宮司の上記の発言はまさに的を射ています。天皇慰霊の旅は、靖国神社の存在意義を根底から崩しかねないのですから。

そしてこの問題提起は、日本国民にも深刻な選択を迫っております。今日にあっても、直系ではなくとも、あるいは、祀られている事実を知らなくとも、靖国神社に鎮まる英霊を親族としてもたない国民は殆どいないかもしれません。戦前には徴兵制が敷かれておりましたので、家庭にあって父、夫、子、あるいは、兄弟であった一般国民男性の多くが、若くして戦場で国に命を捧げているからです。このため、靖国神社に対する国民の意識も格別であり、靖国神社に替る国立の慰霊施設建設案が出現しては消えてゆく背景にも、根強い国民感情があるからに他なりません。殉国された方々の魂の拠り所を、後世の人々がその時々の都合で変更することには、一般的な感情として心理的な罪悪感が伴うと共に、日本の精神世界にあっては、約束を違われた英霊の祟りをも恐れざるを得ないのです。

その一方で、象徴天皇となった戦後にあっても、昭和天皇にカリスマ性が備わっていたこともあり、日本国民の多くが天皇に対して崇敬の念を抱いて生きた経緯があります。その天皇が靖国神社を否定した場合、国民は、たとえ自らの縁者が靖国神社で祀られていようとも、天皇の意向や霊魂観に同調すべきか、否か、迷うこととなるのです。しかも、中には、靖国神社の天皇参拝を支持する人々に対して天皇の意思に反する‘逆賊’のレッテルを貼ろうとする勢力も現れ、靖国否定論者が不敬罪の復活を歓迎する天皇絶対主義者に豹変するという、左右両派の逆転現象まで起きています。

かくして、一般の日本国民は‘板挟み’となるのですが、この難題から抜け出すには、些か時間を要するかもしれません。何故ならば、明治維新から第二次世界大戦、否、今日に至るまで、国際的な背景を含め、実のところ、日本国民は伏せられている情報があまりにも多いからです。そして、やがてその時に至った際には、死して日本国の礎とならんとし、大義を信じて純真な心から国に殉じた日本国民の御霊の名誉だけは、決して損なわれることがないよう願うのです。

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天皇の靖国神社参拝こそ正論では-日本国民に対する慰霊

2018年10月12日 11時12分36秒 | 日本政治
靖国神社につきましては、小堀邦夫宮司が週刊誌に掲載された自身の発言の責をとり、その職を辞されたことで俄かに関心が高まっております。辞任の理由となった発言とは、“天皇陛下は靖国を潰そうとしている”というものであり、現状を憂いた同宮司の積年の思いが、厳しい言葉として口を衝いて出たのでしょう。

 靖国神社の問題を考えるに当たって、まず優先的に考慮すべきは、同施設が、戦場で自らの命を国に捧げられた日本国民の魂を慰める場として創建されたと言うことです。一神教の神と日本国の多神教の神との間ではその性質において違いがあり、靖国神社に対する誤解の元となったり、あるいは、中国や韓国などからは戦争の記憶や国民の反日感情を理由に公人の参拝が常々批判されますが、その原点に立ち返れば、人類普遍の慰霊行為に他なりません。

そして、とりわけ戦死者に対する厚い慰霊が何故必要になるのか、と申しますと、それは、戦地に赴き戦場で武器を手にとって戦うと言うことは、人にとりましてあまりにも過酷で苦悩に満ちた行為であるからです。自らが殺されるか、相手を殺すかの選択を常に迫られるのですから。戦地にあって、真の心の安らぎなど、あろうはずもありません。

 凄惨を極める戦場に臨む人々の心情を慮りますと、靖国神社の存在意義を無碍に否定はできないように思えます。この点に関連して、昨日、NHKのテレビの番組で、現代の日本社会で広がりつつある興味深い埋葬方法を紹介しておりました。それは、‘骨仏’と称される埋葬方法であり、遺骨をお寺の御堂に安置された仏像の体内に納めて供養してもらうという方法です。この方法であれば、身寄りのない人でも、自と一緒に納骨されている誰かの縁者がお参りに来て拝んでもらうことができます。多神教の日本国ならではの発想なのですが、同番組は、‘骨仏’を選択した人は、死後に自らの魂が永遠に慰霊されるという安心感を得て、残された命を前向きに生きてゆく自信を得ることができると報告しています。死後にあって安らぎの場が予め用意されていることは、直面している精神的な不安や苦痛を取り除き、死への恐怖を和らげる作用が認められるのです。

 おそらく、戦前・戦中にあって靖国神社は、現代の‘骨仏’と同様に、その魂の鎮まる先をしつらえるという役割において、明日の命も知れず、また、遠い戦場にあって死と向き合った将兵の方々に対して、大きな心に安らぎと慰めを与えたことでしょう。そして、遺族も含めた多くの人々が靖国神社を訪れ、慰霊のために祈りを捧げることこそを、自らがこの世で精一杯に生きた証としたかったのかもしれません。戦争自体は無いに越したことはありませんが、当時にあって、多くの日本国民が、大義を信じて国のために命を捧げています。‘天皇陛下万歳’と叫んで散華された方も少なくないはずなのです。

国のために自らの命を犠牲にした日本国民の魂に対して、国が背を向けてもよいのか、と申しますと、これは、人類の普遍的な道義的に照らしても国家の責務に反しているように思えます。この文脈においては、天皇の靖国神社参拝こそ正論なのではないでしょうか。左翼の人々は、天皇の戦争責任については激しく糾弾しますが、天皇の国民に対する責任を問うならば、歴史的な天皇の存在意義である国家祭祀の長として、国民慰霊のための靖国参拝こそ強く主張すべきなのではなかと思うのです。

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古色だったビットコインの発想-‘ビット紙幣’はあり得る?

2018年10月11日 15時04分38秒 | 国際経済
ビットコインと言えば、金融工学の最先端から誕生した新時代の通貨というイメージが先行しています。このため、‘新しもの好き’の人々が飛びつき、値上がりを期待した投機の対象となっているのですが、この現代のコイン、案外、その発想は旧式なのではないかと思うのです。

 何故、ビットコインが古色であるのかと申しますと、第一に、そのモデルは、紙幣の誕生以前にあって希少金属から鋳造された硬貨にあるからです。ビットコインの獲得には、大量の電力消費を伴う‘マイニング’に成功する必要があります。言い換えますと、この‘マイニング’こそ、金や銀といった希少金属の採掘を意味しており、‘マイニング’に従事している人々は、古来の採掘事業者と変わりはないのです。違っている点があるとすれば、前者の事業者は、難題を解くためのITの専門知識と電力コストを負担し得る資金力を備える必要がありますが、後者は、世界各地で起きてきたゴールドラッシュに見られたように、鶴嘴を持参すれば身一つでも誰もが参加することができる点等です(ただし、個人が採掘した金塊は硬貨鋳造事業者や政府に売却する必要があった…)。

 第二の理由は、その有限性にあります。しばしば、ビットコインのプラス面として、ビットコインの初期設定において発行高が予め決められており、通貨価値の下落リスクがないとする説明が為されています。今日、凡そ全ての諸国や地域が採用している管理通貨制度にあっては通貨発行の量的枠が存在しないためにインフレを起こし易く、インフレリスクにおいてビットコインは遥かに安定的な資産であるとされているのです。しかしながら、ビットコインの有限性は、プラス面であると同時にマイナス面でもあります。何故ならば、インフレは起きなくとも、発行高が設定された上限に達すれば、深刻なデフレ=通貨不足が発生する可能性が極めて高いからです(もっとも、実際にビットコインが決済通貨として一般に流通しなければ、この問題は発生しない…)。この有限性に基づくマイナス面は、金や銀といった硬貨との共通点でもあります。

 以上に主要な二つの旧来の硬貨との共通点を挙げて見ましたが、これらの諸点は、ビットコインの限界をも示しています。中世にあって、ヨーロッパは、東方貿易における赤字により金銀の流出に直面しており、貨幣不足が経済の停滞を引き起こしていました。この難局を打破したのが紙幣の発明であり、確実なる支払いが約束されている信用性の高い手形、金匠の預り手形、並びに、金兌換の保障の下で金融機関が発行した銀行券等が紙幣として流通し、市中の貨幣不足を補ったのです。紙幣の登場は、必ずしも希少金属資源に恵まれていたわけではなかったヨーロッパの急速な経済な発展を支えることとなりますが、それでは、ビットコインを準備とした紙幣発行はあり得るのでしょうか。

 金や銀といった希少金属は、実体を有する‘もの’であり、それ自体が使用、並びに所有価値を有します。それ故に、金本位制や銀本位制も成り立つのですが、ビットコインには、こうした通貨としての価値を支える多重的な裏付けがありません。そもそも、ビットコインには発行元となる中央銀行も存在せず(もっとも、中央銀行が発行するのは公定通貨としての銀行券であり、硬貨を発行する権限は政府にある…)、一定のビットコインと交換価値を持つ‘ビットビル’や‘ビットノート’といった‘ビット紙幣’を発行することはできないはずです。あるいは、民間金融機関が自らが保有するビットコインを準備として独自に各種紙幣を発行するという方法もあるのでしょうが、‘無’から生じたビットコインには価値の裏付けがないに等しいため(各国が発行する信用通貨の価値を支える総合的な国力とは違い、‘マイニング’という私的で個人的な労力は信用価値を生まない…)、これを元にした‘ビット紙幣’が広く一般に決済通貨として流通するとも思えませんし、単一通貨でもありませんので両替のコストもかかります。

このように考えますと、ビットコインは、金貨や銀貨よりも紙幣創造力において劣っており、ビットコインの限界を越えるためのビット紙幣の登場は、夢のまた夢なのかもしれません。ビットコインから生まれたフィンテックについては、金融テクノロジーの一つとして将来的に活用されることはありましょうが、少なくともビットコインについては、リスク回避のためにも、政府であれ、個人であれ、その限界を知ることは重要なのではないかと思うのです。

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ローマ法王の平壌訪問の行方-堕天使問題

2018年10月10日 14時24分06秒 | 国際政治
金正恩氏、法王を「熱烈歓迎」の意向 韓国大統領が伝達へ
 先日、中国とバチカンが係争中にあった司教の叙任権問題で折り合い、関係修復に向けて動き始めたとする報道があった矢先、今度は朝鮮半島から、北朝鮮の金正恩委員長がフランシスコ法王を平壌に招待したい意向を表明したとするニュースが飛び込んできました。

 韓国大統領府の金宜謙報道官の説明によれば、9月に開催された南北首脳会談の席で文在寅大統領が金委委員長に法王の訪朝を打診したところ、‘熱烈歓迎’を約する返答を得たとされています。文大統領は今月中旬にはバチカンを訪問し、直接法王に同委員長のメッセージを伝えるそうですので、法王訪朝の実現の如何は、この会談における法王の返答次第となりましょう。もっとも、文大統領は同提案に際して「法王は朝鮮半島の平和と繁栄に関し、強い関心を示している。一度会ってみてはどうか」と切り出しており、法王の関心の高さを理由とするこの言い回しからしますと、既にバチカンから内諾を得ているのかもしれません。あるいは、同時期に中国とバチカン市国との関係が改善された点に注目すれば、このシナリオを描いたのは、南北両国に強い影響力を及ぼしている中国、もしくは、関係国を背後からコントロールし得る国際勢力である可能性も否定はできないように思えます。国際情勢の緊迫化を受けて、共産主義国と宗教国家という‘水と油’の如き関係にある両者が俄かに接近を開始したわけですが、両者は、‘同床異夢’なのでしょうか、それとも、‘同床同夢’なのでしょうか。

 政治と宗教との関係を見ますと、キリスト教の場合には、『新約聖書』の「マタイ伝」には「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」と記されており、政教分離を定める二剣論として解されています。この解釈からしますと、フランシスコ法王のみならず、歴代法王の政治的活動はキリスト教の教義からは外れるのですが、イエズス会を始め、キリスト教の宗派には政治権力志向が強い教団も存在しています。しかも、イエズス会の会員には改宗ユダヤ人の出身者も多く、選民思想や政教一致を特色とするユダヤ教との親和性も高いのです。フランシスコ法王が初のイエズス会出身の法王である点に鑑みますと、中国という21世紀のアジアの大国との協調は、‘自ら’の勢力拡大のチャンスであり、どこか、イエズス会士達がアジア・アフリカで暗躍していた近世・近代の時代を髣髴させます。同会が‘偽善者’の異名をとったように、表向きは敬虔なる‘神の僕’であり、時には崇高なる殉教者でありながら、その実、欧州諸国の政治権力に阿ると共に、現地の政治権力にも取り入って布教先における内乱や植民地化を企み、武器弾薬の供給や奴隷貿易にも従事したあの時代を…。

 その一方で、政治権力にとりましても、宗教は、その超越的な権威と信者の大衆性において極めて利用価値の高い存在です。共産主義の‘開祖’であるカール・マルクスは、自らは黒ミサの司祭であったことを隠しながら、‘宗教は麻薬’としてこき下ろしましたが、共産主義国家にとりましては、宗教とは、国家の正統イデオロギーに対する脅威とはなるもの、全知全能の‘神’を自らの‘味方’に付けることができます。如何に悪逆非道な行いを繰り返しても、宗教的権威と握手すれば、神からの許しを得た印象を与えることができるのです。また、不条理で理不尽な政策や措置であっても、‘神’の名を持ち出しさえすれば、神に対する従順という心理的な作用が働いて人々からの反対の声を抑えることができるのですから、必ずしも宗教は政治権力の‘敵’ではないのです。否、キリスト教に限らず、権力と権威が一体化する政教一致体制の多くが全体主義体制に帰結するのも、両者の相互依存関係に求めることができます。

 このように考えますと、フランシスコ法王が金委員長の訪朝要請に応える可能性は高いのですが、この訪朝は、両者にとりまして危険な賭けともなりましょう。近年、カトリックの聖職者による非行行為が表沙汰になり、同法王に対する辞任要求にも発展しています。カルト教団を含め、聖職者による犯罪は、神の権威に基づく信者からの厚い信頼を悪用した結果であり、まさしく偽善の極みとも言えます(神聖なほど悪の隠れ蓑になりやすいというパラドックス…)。そして、北朝鮮が朝鮮戦争の発端となった侵略をはじめ、国家ぐるみで犯罪に手を染めてきた経緯を考えれば、仮に、法王の訪朝がこれらの悪しき行為にお墨付きを与え、不問に付すことにでもなれば、悪を擁護する結果ともなりかねません。神が悪魔に利用される忌々しき事態となり、同法王やカトリックに対する失望と批判がさらに高まり、組織崩壊の危機にさえ直面することとなりましょう。

 一方、法王が、北朝鮮に自らの行為を悔い改めさせて善なる道を歩ませる、つまり、核やミサイル開発を完全、検証可能、かつ不可逆的に放棄させ、拉致事件を含め、国家犯罪の一切から足を洗わせることができれば、あるいは、失われつつあるカトリックに対する評価と信頼は回復されるかもしれません。

 フランシスコ法王と金委員長との会談は、天使と悪魔の握手を意味するのでしょうか。それとも、キリスト教精神を説いて悪魔を改心させるのでしょうか。あるいは、両者とも、その真の姿は堕天使とされる悪魔であったのでしょうか。権威失墜、あるいは、神に由来する神聖性のベールが剥がれ落ちるリスクを孕む同法王の訪朝は、政治と宗教との危うい関係に人々が気付く切っ掛けとなるのではないかと思うのです。

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インフラ支援は日本単独の方が安全では?-日中協力のリスク

2018年10月09日 14時21分16秒 | 国際政治
 習近平国家主席が自らの威信をかけて打ち出した一帯一路構想。当初は、その終着地となるイギリスをはじめとしたヨーロッパ諸国からも熱い期待が寄せられ、プロジェクト融資の中核となるAIIBも曲がりなりにも順調に発足しました。しかしながら、その実態が明らかになるにつれ、今や全世界レベルで同構想に対する強い逆風が吹き始めています。

 ところが、日本国政府の動きを見ますと、奇妙なことに中国と一緒になって逆風に抵抗しているように見えます。何故ならば、一帯一路構想の名称は外してはいるものの、中国との間で第三国に対するインフラ融資の協力事業を実施する方針を示しているからです。

 政府の説明によれば、中国一国に任せておくと、融資先国を‘借金漬け’にし、政治的要求を突き付けたり、借金の形に人民解放軍の軍事拠点を獲得するケースが頻発するため、こうした中国の阿漕で高利貸し的な手法に歯止めをかける必要があるそうです。いわば、日本国政府は、評判のすこぶる悪い中国を外部から監視するための‘お目付け役’の役割を買って出たのであり、一見、財政支援を受けるインフラ・プロジェクト実施諸国にとりましては‘救世主’のようにも見えます。言い換えますと、日本国の対中インフラ協力の主たる目的は、中国を援けるのではなく、中国の脅威に直面している融資先国を援ける、保護するところにあるとされたのです。ここに、日本国政府は、一体、誰の‘救世主’になろうとしているのか、という問題が提起されるのですが、果たして、日中協力の先にはどのような事態が待ち受けているのでしょうか。

 少なくとも、風前の灯となった一帯一路構想が延命されるという側面においては、日本国政府は、‘中国の夢’の実現に手を貸すことになります。その理由は、一帯一路構想とは‘全ての道は中国に通ず’と言わんばかりの中華思想に基づく中国の世界覇権プロジェクトであり、上述したように名目上は同構想との関連性を否定しても、結果的には、中国発案の構想の枠内での協力となるからです。外貨準備の減少に悩み、かつ、米中戦争の激化によってさらなる景気後退が予測される中国側ら見れば、日中協力は、資金面での負担軽減を意味します。たとえ、日本の協力によって相手国に対する貸付金利の利率が低めに設定され、‘高利貸し’が抑制されたとしても、プロジェクト自体が実現すれば、貸付資金も無事に回収できます。また、仮に、現在進行中の高金利の貸付によるプロジェクトにおいて相手国側が債務不履行に陥ったとしても、その損失は、共同出資者である日本国政府の肩にのしかかります(あるいは、現時点で、日本の協力を求めてきていることは、既に資金回収が不可能となりそうプロジェクトがあり、その損失を日本に肩代わりさせるためか・・・)。何れにしましても、中国としては御の字なのです。

 その一方で、融資先国を支援する結果をもたらすのか、と申しますと、そうとばかりは言えないように思えます。日本国政府が参加するとなれば、低利融資により財政負担や債務不履行のリスクが軽減されることは確かです。しかしながら、一帯一路構想の目的、並びに、将来的ヴィジョンとしての華夷秩序の再来を考慮しますと、日本国の協力によるプロジェクトの推進は、中華経済圏に取り込まれ、属国扱いされかねない融資先諸国、特に一般国民にとりましては‘悪夢’となるかもしれません。つまり、日本国政府は、‘救世主’どころか、これらの諸国を中国に差し出す役割を演じてしまうかもしれないのです。

 こうしたリスクがある限り、日本国政府は、海外諸国に対してインフラ面における支援を行うならば、中国と組むよりも一帯一路構想とは一線を画し、独自の判断で単独支援を実施した方がより安全なように思えます。あるいは、同盟国であるアメリカのトランプ政権も同地域におけるインフラ支援プロジェクトを提唱しておりますので、アメリカのプランに協力するという選択肢もあるはずです。少なくとも、中国の‘救世主’となるような日中協力につきましては、日本国政府には対中協力の義務もありませんし、日本国民にも財政負担のみならず、将来的には安全保障上の重大なリスクが生じる可能性があるのですから、人類に災禍をもたらしかねない覇権主義国家への協力は見直すべきではないかと思うのです。

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アメリカの対中FTA阻止条項要求-米中二者択一の選択へ

2018年10月08日 13時46分35秒 | 国際政治
報道に拠りますと、ロス米商務長官は、ロイター通信とのインタヴューの中で、日本国、並びに、EUがアメリカと通商協定を結ぶに際し、中国等を念頭に非市場経済国との間でFTAを禁じる条項を設ける意向を示したそうです。この条項が新たな日米通商協定に盛り込まれるとしますと、日本国は、中国も加盟国となるRCEPを締結することは不可能となります。

 日本国政府は、TPP11に次いでRCEPの成立を急いでおり、年内での大筋合意を目指して交渉を加速させようとしています。アメリカの方針は、いわば、この流れに水を差した格好となりますが、RCEPが内包するリスクを考慮しますと、日本国にとりましては、アメリカの要求は‘渡りに船’なのではないかと思うのです。RCEPへと向かう危険な道から引き返すための…。

 アメリカの要求は、交渉相手国に対して、自由に通商協定を結ぶ権利に制約を課しているため、一見、極めて傲慢で他国の主権を侵害しているようにも見えます。しかしながら、アメリカにも、自らの政策に沿う国を通商協定の相手国として選ぶ自由がありますので、アメリカが、自国の求める要件を充たしていないことを理由に日本国との新たな通商協定の締結を拒否すれば、‘それまで’ということになります。言い換えますと、同対中FTA阻止条項とは、日本国に対して‘日米通商協定を選ぶのか、RCEPを選ぶのか’の二者択一の決断を迫っていると言っても過言ではないのです。

 これまで、日本国政府は、アメリカと中国との間の巧みに泳ぐような通商政策を展開してきました。しかしながら、ここに来て、終にどちらか一方を選択すべき時期が到来しているようです。それでは、日本国は、アメリカと中国という選択肢の内、どちらを選ぶのでしょうか。この選択については、今やアメリカを抜いて中国が日本国の最大貿易相手国となっていることから、経済界を中心に中国を選ぶべしとする意見もあるかもしれません。しかしながら、以下の理由から、日本国は、迷わずアメリカを選ぶべきです。

 第一の理由は、FTAを締結しますと、様々な移動要素は‘高きから低きへ’と流れますので、価格競争力において有利となるのは中国、並びに、その他のRCEP加盟国です。また、労働コストや不動産価格等の競争力から、製造拠点の流れは日本⇒中国+その他加盟国となりましょうし、資金力の規模の面からすれば、企業買収資金の流れは逆に中国⇒日本となると同時に、日本⇒中国の技術流出の流れが生じましょう。これらの移動が一斉に起きれば、日本国の産業の空洞化が加速され、日本市場は中国の‘草刈り場’となりかねないのです。

 第二に挙げられる点は、共産党支配による中国の政経一致の国家体制です。中国では、近年、企業に対する共産党のコントロールが強化されており、グローバル展開を志向する政府系企業のみならず、民間企業であっても共産党の息がかかっています。日中経済関係が深化すればするほど、様々なルートを介して日本経済にも中国共産党の影響力が及び、その従属下に置かれるリスクが高まります。意に沿わない日本企業に対しては、中国政府は容赦なく制裁を加えることでしょう。しかも、中国では、遵法精神が低く、かつ、法の支配が確立していませんので、たとえ日系企業が不利益を受けたとしても法的救済の手段はありません。現状でさえチャイナ・リスクが懸念されているのですから、仮にRCEPが成立すれば、この傾向に拍車がかかるのは必至です。
 
第三の理由は、米中関係のさらなる悪化が予測されることです。‘新冷戦’とも称されるように、米中の対立は、経済分野に限定されているわけではありません。この対立構図からしますと、RCEPとは‘旧冷戦’時代にあってアメリカの同盟国である日本国が仇敵であるソ連邦とFTAを結ぶようなものです。現実には、共産主義国への技術流出を防ぐためにココム規制などがあったのですから、FTAを介して軍事に転用可能な民間技術や情報等が‘敵国’に流出する状態を放置するはずもありません。早かれ遅かれ、上記の‘日米通商協定を選ぶのか、RCEPを選ぶのか’の二者択一は、政治的にも、‘アメリカを選ぶのか、中国を選ぶのか’の選択となるのです。

中国という国が、自由、民主主義、法の支配、基本権の尊重といった人類普遍とされる諸価値を蔑にし、共産主義イデオロギーの名の下で犯罪や人権侵害行為さえも正当化しています。こうした非人道的な国を加盟国とした広域的な自由貿易圏を形成することは、アメリカからの要請がなくとも、日本国自らの判断として控えるべきことのように思えます。人には状況の変化に対する高い対応能力が備わっているのですから、中国抜きで経済の繁栄を目指すという方向性もあるのではないかと思うのです。

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中国人ICPO総裁失踪事件-重なる矛盾

2018年10月07日 14時58分32秒 | 国際政治
目下、ICPO(国際刑事警察機構)では、同機構設立以来、前代未聞の大事件に遭遇しています。それは、あろうことか、ICPOの孟宏偉総裁その人が失踪してしまった、という事件です。この事件の発端は、どうやらICPO総裁に中国出身者が就任するという矛盾に満ちた人事にあるようです。

 第1の矛盾は、国際社会における中国に対する認識不足、あるいは、先走った過剰期待に起因しています。共産主義イデオロギーに基づいて建国された中国には、未だに政治犯が存在しています。共産党が敷く一党独裁体制に反対を表明する、‘自治区’が独立を主張する、政府が決め、実行している政策を批判する…といった政治的発言を国民が口にすれば、即、犯罪者として処罰の対象となります。一般国民のみならず、特権階級とされる共産党員もまた安心してはおられず、権力闘争に敗れた要人、あるいは、最高権力者のライバルとなる党員達もまた‘犯罪者’のレッテルを張られて失脚する可能性があります。現在、習近平国家主席は、腐敗撲滅運動の名目で‘抵抗勢力’となり得る要人たちを次々と粛清しており、孟宏偉総裁の失踪も、一連の粛清に絡んでいると指摘されています。言い換えますと、中国では、政治と経済どころか政治と刑事も分離されておらず、警察活動に関する国際組織のトップを輩出する国としては不適切であると言わざるを得ないのです。

 第2の矛盾は、国際刑事警察機構のトップが、自らの出身国から犯罪(汚職)の廉で身柄を拘束されている疑いが強いことです。ここに、犯罪を取り締まるべき国際レベルの警察トップが‘犯罪者’であるという重大な矛盾が生じています。もっとも、仮に、孟宏偉総裁が実際に汚職に手を染めていたならば、人物評価が不十分であったという点で、同氏を総裁のポストに就けた国際レベルの人事に責任があるのですが、実際には、上述したように権力闘争の犠牲者であった可能性の方が高いものとも推測されます。とは言え、中国政府は、同氏の失脚の原因を政治的粛清であるとは決して認めず、汚職によるものとして押し通そうとするでしょうから、真相はどうであれ、表向きは、世界の警察のトップが犯罪者という構図のみが残されてしまいます。

 第3の矛盾点は、仮に中国政府による孟宏偉総裁の拘留が、その不当性において国家レベルの犯罪を構成するものであっても、誰も救い出すことができないことです。ICPOと雖も、中国の国家主権を前にしては捜査権を及ぼすことはできず、中国政府の為すに任せるしかないのです。警察組織であっても警察活動ができないという矛盾は、政治犯が存在する国の不条理を物語っており、中国が、人々の基本権を等しく保障することを旨とする現代国家ではない証左ともなりましょう。

 そして、第4の矛盾点は、同総裁の失踪の真の原因が、中国共産党内部の権力闘争でも、刑法上の汚職でもなく、ICPOの方針に対する中国政府による反対の意思表示であった場合に生じます。これまでも、中国は、国家ぐるみで他国に対してサイバー攻撃やテロ支援を行ってきたとする指摘があります。また、麻薬密売、臓器売買、人身売買、海賊版の製造・販売などの犯罪に関しても、共産党幹部の利権とする見方もあります。孟宏偉総裁が、組織トップとしてこうした犯罪に対する国際的取り締まりの強化に動いていたとしますと、中国政府は、同氏を脅迫してでもこの政策方針を阻止しようとしたかもしれません。憶測の域はでないものの、同総裁は、ICPOと出身国中国との間の板挟みとなり、この解き難い矛盾に苦しんでいたのかもしれないのです。

 以上に矛盾点を述べてきましたが、この耳目を驚かす失踪事件、同総裁が中国出身であるが故に迷宮入りとなるのでしょうか。真相が闇に葬られるとしますと、それは、中国自身が魑魅魍魎が蠢く暗黒大陸である現実を浮き上がらせることになるのではないかと思うのです。

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自衛艦の旭日旗掲揚問題の背景とは-‘自衛隊封じ込め戦略’か?

2018年10月06日 11時32分52秒 | 日本政治
自衛艦 韓国派遣見送り 旭日旗自粛「受け入れられず」
今月11日、韓国政府は、14カ国が参加する国際観艦式を開催するそうです。日本国の海上自衛隊も護衛艦を派遣する予定でしたが、韓国側から思わぬ‘クレーム’が付いて、同護衛艦の見送りを決定したと報じられております。

 韓国側からの‘クレーム’とは、‘自衛艦旗として使用されている「旭日旗」は、韓国国民からは“侵略・軍国主義の象徴”と見なされており、この国民感情に配慮して、日本国側は、旭日旗の掲揚を自粛してほしい’というものです。ところが、自衛艦旗である旭日旗は、国内法、並びに、国際法の両者に照らしても掲揚義務があるため、韓国側の要請を無視して同旗の掲揚を敢行する選択肢もあったものの、結局、日本国政府は、自衛艦の韓国派遣を取りやめるという決断に至ったのです。

 こうして自衛艦の旭日旗掲揚問題は、日本国側が韓国側の国民感情に一定の配慮を示す形で一先ずは決着されるのですが、韓国側の‘クレーム’とは、国民感情のみが理由なのでしょうか。もしも韓国側が、今後とも、「旭日旗」を根拠として日本国の自衛艦の韓国領域への立ち入りを禁止する方針を貫くとしますと、当然に、朝鮮半島において有事が発生した場合には、同領域内での自衛艦の活動の一切が、韓国側から拒絶されることが予測されます。たとえ、安保法制上、日本国政府によって朝鮮半島有事が‘存立危機事態’と認定され、日米同盟における集団的自衛権の発動要件を満たしたとしても、韓国側の受け入れ拒否により、海上自衛隊による米軍支援さえブロックされるのです。想定される朝鮮半島有事の性格を考えれば、最も期待されている軍事力こそ、陸自でも空自でもなく、海上自衛隊に他なりません。そして、今般の国際観艦式への参加予定自衛艦が護衛艦であったところも気がかりな点なのです。

 旭日旗をめぐる日韓間の悶着がエスカレートしたのが3度目の南北首脳会談の後であったのは、単なる偶然なのでしょうか。親北派で知られる文在寅韓国大統領は、南北融和に傾斜するあまりに、今や、北朝鮮の‘代理人’、あるいは、‘メッセンジャー’とも見なされており、韓国の対日政策に北朝鮮の意向が反映されている可能性も否定はできません。さらには、北朝鮮の後ろには、中国やロシアが後ろ盾として控えていますので、これらの軍事大国の思惑が間接的に韓国の政治に及んでいるとする推測も成り立ちます。米中、並びに、米ロ関係が険悪化する中にあって、中国、ロシア、北朝鮮の三国は、日米離反、あるいは、有事に際しての日本国の‘自衛隊封じ’こそ、軍事的にアメリカに優るための有効な手段であると考えているはずです。

 このように考えますと、韓国における国民感情の反発は、文政権によるもっともらしい理由付けに過ぎず(日本国が相手ならば感情論でも通用すると考えているのでは…)、その背景には、アメリカとの対立の激化を見越した中国、ロシア、北朝鮮による‘自衛隊封じ込め戦略’が潜んでいるように思えます。今般の事件はその布石に過ぎず、国際観艦式に限定された一過性の問題でもないのかもしれません。日本国政府は、同盟国であるアメリカともに、その背景を含めて韓国の文政権の動きを慎重に分析すべきではないかと思うのです。

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オリンピック開催の費用対効果への疑問

2018年10月05日 11時08分47秒 | 日本政治
東京五輪パラ経費、総額3兆円か 国支出8千億円と検査院
2020年の東京オリンピック・パラリンピックの開催が決まった時点では、その総予算は凡そ6000億円程度と国民に説明されていました。ところが、蓋を開けてみますと、驚くべきことに、国と都を併せた総額は3兆円にまで膨れ上がるというのです。国土交通省をはじめ、各省庁がこぞって関連予算を要求しているそうですが、仮に、はじめから財政負担が3兆円と分かっていれば、国民の多くは東京開催に反対したことでしょう。
 
 財政負担問題が持ち上ったのを機に、ここで原点に返って考えてみるべきことは、オリンピックの費用対効果なのではないかと思うのです。オリンピックとは、平和の祭典として機能した古代ギリシャのオリンピックとは異なり、今や、商業ベースの国際イベントの一つに過ぎません。興行であるならば、他のプロスポーツと同様に民間任せで構わないはずなのですが、オリンピックだけはクーベルダン男爵の提唱により、騎士道精神にも遡るスポーツマンシップの国際的育成プロジェクトとして創設されたため、サマランチ会長によって商業・利権化した後も、開催国の政府も関わるという特別の立場にあり続けています。言い換えますと、費用対効果の問題は、公的支出=国民の負担が政策効果=国民の受益に繋がるのか否かの問題を問うていることとなります。

 この観点からオリンピックをみて見ますと、少なくとも大会の開催に時期に限定すれば、その主たる効果は、国民に対する国際スポーツ大会の直接的な観戦機会の提供です。つまり、政府による娯楽の提供であり、この点は、古代ギリシャのオリンピックよりも古代ローマ帝国の‘パンとサーカス’うちの‘サーカス’に近いかもしれません。もっとも、現代オリンピックの場合、実際にスタジアムや競技会場において観戦する国民はチケット代を払う必要がありますので、無償であった古代ローマの時代よりも公益性は低くなります(テレビ等の中継は全世界に配信されるため、開催地の利益にはならない…)。しかも、事業収益の多くは、興行主であるIOCの懐に入るでしょうから、国であれ、地方自治体であれ、開催地の財政を潤すことはないのです。

 その一方で、開催国メリットとしては、「1964年東京オリンピック」がモデルとされる、オリンピック開催を機とした先進国化効果がしばしば指摘されています。しかしながら、このモデルも、中国や韓国といったアジアの一部に限られており、日本のように交通網が一先ずは整備されており、かつ、既存の競技場が使用可能な「2020年東京オリンピック」でさえ3兆円もの財政支出を要するのであれば、新興国の開催地のハードルはさらに高まります。こうしたインフラや施設等の建設費用は、政府や地方自治体の持ち出しですので、この面でも費用対効果は費用が上回ることでしょう。もっとも、都市計画上に必要となる交通網の整備等は、基本的にはオリンピック開催とは無関係ですが、着工時期が早まるといったメリットはあるかもしれません。

加えて、オリンピック・グッズ等の販売効果は、IOCにライセンス料を支払った一部の民間企業に集中しますので、オリンピック・ビジネスの波及効果も限られています。否、オリンピックを連想させるデザインを用いただけでも、即、撤去の要請を受けるそうですので、権利侵害行為として賠償金を支払わされるリスクさえあります。宿泊や訪日による観光収入もまた、開催期間に限定されている上に、当然に民間の観光業者等の事業収益となります。つまり、政府も地方自治体も、民間事業者の増収増益による納税額が増えることのみを期待するしかないのです。

以上に主たる点を検討してみましたが、費用対効果からしますと、費用の面では、明らかに公的負担=国民負担が重い一方で、効果については、一般国民と関連事業者との間には違いがあるものの、全般的には負担を下回るように思えます。そして、何よりも、二十日足らずの僅かな開催期間の楽しみのために、3兆円もの公費を支出することには、国民自身が首を傾げてしまうかもしれません。同じ3兆円があるならば、本庶佑教授をはじめノーベル賞受賞者の方々が口々に指摘されておられるように、技術立国としての日本国を維持・発展させるべく、基礎研究に予算を注ぎ込んだ方が、余程、国民一般にその成果の恩恵が広く均霑されるのではないかと思うのです。

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第二回米朝首脳会談は‘物別れ’になるのでは?

2018年10月04日 14時02分18秒 | 国際政治
韓国外相「終戦宣言と核施設廃棄を交換条件に」 北への核申告要求は先送り提案
ニューヨークの国連本部では、毎年、9月末頃に国連総会が開かれており、各国の代表が国際社会に向けて自らの政府の政策方針を発表する、あるいは、‘もの申す場’となっております。核・ミサイル開発問題により安保理決議に基づく経済制裁の対象国となっているものの、北朝鮮の代表にも演説のチャンスだけは等しく与えられているようです。

 今般の国連総会における李容浩外相の演説において注目すべきは、自国の核放棄について明確な条件を付けていることです。その条件とは、朝鮮戦争終結を宣言し、米朝平和条約締結への道筋を付けることです。この北朝鮮側の主張は、同国の核開発の動機の一つでもあり、かつ、以前から繰り返されてきたものですが、今年6月12日の第一回米朝首脳会談では、北朝鮮の核放棄には大筋では合意したものの、その時期、手段、並びに手順等については曖昧のままに残されていました。しかしながら、本国連総会における北朝鮮側の演説は、北朝鮮は、第一回米朝首脳会談では何一つ妥協しておらず、あくまでも、核・ミサイル開発をアメリカに自らの要求を実行させるための脅迫手段として使う姿勢に変わりはないことを鮮明にしたのです。

 加えて、北朝鮮の朝鮮中央通信は、今月2日に、“朝鮮戦争の終結宣言は、核放棄の前提条件でもない”といった趣旨の論評を載せています。つまり、たとえアメリカが‘相応の措置’として北朝鮮の要求に沿って同宣言を行ったとしても、必ずしも北朝鮮は核を放棄するとは限らないと述べているのです。しかも、核放棄とは言わず、限定的に寧辺核施設と表現していることから、他の核施設については不問にふされた形となっており、完全なる核放棄に至るのかも不明ですアメリカに対して‘無条件の終戦宣言’の実行を求めたに等しく、この立場は、アメリカの基本的立場であった‘無条件の核放棄’の裏返しとも解されるのです。もっとも、この点に関しては、韓国は、翌3日に朝鮮戦争の終結宣言と寧辺核施設の廃棄との交換条件化を提案していますので、北朝鮮側は、韓国を介して第2回米朝首脳会談での‘落としどころ’を示したのかもしれません。

 かくして、第一回米朝種の会談で取り残した北朝鮮の核・ミサイル放棄に関する不透明な部分は、今般の総会演説と上記の論評を以って半ばその像を結ぶものとなりました。それは、‘北朝鮮は、核放棄に応じる意思はあるけれども、その実行は、アメリカが無条件に朝鮮戦争の終結を宣言した後のことであり、しかも、実際の核放棄は金正恩委員長の決断に専ら任されている(しかも、現段階では寧辺核施設以外は放棄の対象外…)’という北朝鮮側のスタンスです。今や、決断のボールは北朝鮮側からアメリカ側に投げられ、これを受取ったトランプ大統領の決断が待たれることになったのですが、果たして、トランプ大統領は、この‘虫の良い’北朝鮮側からの要求を快く受け入れるのでしょうか。

報道に拠りますと、年内にも、開催地はスイスのジュネーブとも噂される第2回米朝首脳会談が設けられるそうです。これに先立って、ポンペオ米国務長官の訪朝が今月7日に予定されていますが、最終決断は首脳同士の合意に委ねられるものの、このテーブルでは少なくとも北朝鮮側の要求の詳細が確認されることでしょう。しかしながら、北朝鮮側の要求がはっきりしている以上、トランプ大統領は、中間選挙を控えた時期なだけに、韓国案に沿った妥協であっても、北朝鮮に逃げ道を残すような合意ではむしろ有権者の失望を買うリスクがあります(逆効果…)。北朝鮮の検証可能な形での完全非核化は、アメリカとしては譲れない線なのでしょうから、第2回米朝首脳会談では、対立点が明確になったが故に、お互いの要求が咬みあわず、物別れとなる可能性は極めて高いように思えるのです。

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スウェーデンの中国観光客追い出し事件-中国の対外戦略の一環か?

2018年10月03日 16時01分27秒 | 国際政治
スウェーデンと中国との関係は、中国人観光客に対するスウェーデン警察の対応をめぐり緊張状態にあります。事の発端は、予約より一日前に到着した中国人観光客がフロントで宿泊を断られたにも拘わらずにロビーに居座ったところ、駆け付けたスウェーデン警察官から外に引きずり出されたというものです。

 常識的に考えれば、予定よりも一日前の到着、あるいは、予約ミスは、旅行先の失敗談として旅のお土産話にでもなるのですが、このケースでは、誰もが予想もしない展開となりました。手荒につまみ出された観光客が中国人親子であったことから、スウェーデン側の対応を不服とした中国政府が外交問題に発展させたからです。中国国内のネット上では、非常識な行動をとった中国人にも非があるとする意見も見受けられるそうですが、あるいは、中国国民の多くも強面でスウェーデン政府に詰め寄る中国政府を支援しているかもしれません。

 中国政府の強硬な態度は、‘強くて頼もしい中国’を国民にアピールする狙いもあるのでしょうが、その根底には、共産主義国家の対外戦略が潜んでいるようにも思えます。例えば、外国に自国の歓迎を演出する‘歓迎戦略’というものがあります。この戦略とは、‘外国から自国民が熱烈に歓迎される状況を自ら造りだし、その状況を利用して政治的目的を正当化する’というものです。例えば、ソ連邦が周辺諸国を併呑するに際しては、必ずと言ってよい程、相手国の強い要望に応えるという体裁をとっています。ソ連邦崩壊後であっても、この伝統的手法はソ連邦崩壊後のプーチン政権にも受け継がれており、南オセチア問題、さらには、ウクライナ問題への介入でさえ、ロシア系住民による要請が口実の一つとされました。中国がチベットに人民解放軍を進駐させた際にも、同地では、‘熱烈歓迎’の横断幕が掲げられていたのです。住民への強制であれ、動員による演出であれ、何であれ、相手国が歓迎している、という‘形’が重要なのであり、相手の要望に応える行動であれば、その実態がたとえ侵略であったとしても、違法性が阻却できると考えているのでしょう。

今般のスウェーデン政府との悶着につきましても、この発想に基づく幾つかの意図が推測されます。例えば、ここで中国政府が制裁を辞さずの構えで交渉し、スウェーデン政府から陳謝、あるいは、中国人観光客の待遇改善の確約を引き出すことができれば、他の諸国に対する暗黙の威嚇となります(もっとも、現状ではスウェーデン側は中国の要求を拒絶している…))。‘中国人観光客に対して丁重な’おもてなし‘をしなければ、スウェーデンと同様の運命を辿るぞ’という…。言い換えますと、中国政府は、海外諸国に対して自国民の受け入れを‘歓迎’させ、滞在する自国民に内国民待遇を越えた‘特別待遇’を与えるよう要求しているのかもしれないのです。

  あるいは、さらにスケールの大きな思惑があるとしますと、それは、全世界の中国人に対する対人主権を内政干渉の道具として活用することです。今回の事件では、中国人観光客の待遇が問題視されましたが、今後、観光客のみならず、中国系移民と移民先の国民との間で何らかの争いや摩擦が生じた場合にも、中国政府が介入し得るよう、前例を作ろうとしたとも考えられます。究極的には、他国の領域主権よりも中国の対人主権を優先させ、‘中国人の住むところは中国の主権の及ぶところ’の状況を目指しているのかもしれません。

 現在、外貨準備の減少に悩む中国は、外貨流出を規制するための措置をとっていますが、他国で貴重な外貨を費やしてしまう観光客の存在は、本来であれば、規制対象となるはずです。それにも拘わらず、中国政府が、移民も含めて積極的な自国民の海外送り出し政策を続けていることには不自然でもあるのです(その一方で、優秀な自国民留学生などに対しては呼び戻し政策を行っている…)。中国の観光政策が、行く行く先を見越した戦略の一環であるとしますと、この謎も解けるように思えるのです。

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本庶佑教授の箴言-‘教科書をも疑え’

2018年10月02日 13時30分58秒 | 日本政治
免疫のブレーキ役発見、革新的がん治療に道筋 本庶佑氏にノーベル医学・生理学賞
昨日、本庶佑京都大高等研究院特別教授に本年度のノーベル医学生理学賞が贈られることが決まりました。免疫学の先端を切り開く日本国の研究レベルの高さを示す快挙であり、国内は祝福の声に包まれております。‘佑(たすく)’というそのお名前どおり、多くの人々を援ける道を歩まれた本庶教授に心からの敬意とお祝いを申し上げます。

 ノーベル賞受賞の報を受けて、昨晩、本庶教授は、記者会見の席に臨まれていましたが、この時、大変、興味深い発言をなされています。それは、研究に対する基本姿勢に関するご自身の見解であり、簡潔にまとめますと‘教科書をも疑え’というものです。教科書には嘘も書いてあると…。

 ノーベル賞の受賞対象となったのは、末期がんにも優れた効果を示してきたオブジーボ(免疫チェックポイント阻害薬)開発の基礎となる免疫細胞の研究です。従来のがんに対する免疫療法では、免疫細胞の活性化による攻撃能力の増強に傾斜する傾向にあり、標的分子も曖昧でした。また、がん細胞自身も突然変異等によってがんと闘う免疫細胞の活動を抑える免疫抑制性を備えてしまうため、行き詰まりの状況にあったそうです。この状況のブレークスルーとなったのが、分子レベルでの免疫メカニズムの解明に基づく制御面(免疫チェックポイント分子PD-1)に注目した同研究であり、‘攻撃から制御’への逆転の発想が、がん治療に新たな道を開いたのです。

こうした経緯があるからこそ、先の記者会見でのお言葉には重みがあるのですが、同研究が評価されたのは、一般的な免疫システムの働きを利用しているため、特定のがんのみならず、様々な種類のがんに対しても、その効果が期待される点です。そして、このような適用範囲の広汎性は、‘教科書をも疑え’というその徹底した懐疑主義的な姿勢にも言えるように思えます。事実に行き着くためには、定説とされる教科書、あるいは、権威ある論文や理論をも疑う必要があることは、どの分野であっても変わりがないからです。

虚偽の記載に関しては、理系よりも文系の分野の方が余程問題が大きく、今では歴史の教科書の記述を頭から信じる人は少なくはなりました。その一方で、人の自然なる懐疑心を押し潰そうとする勢力もまだまだ強く、中国といった全体主義国では国定のイデオロギーに疑問を挟むことは許されませんし、自由主義国でさえ、歴史修正主義という批判的レッテル張りやポリティカル・コレクトネスといったタブーや暗黙の圧力が蔓延しています。宗教の世界でも、信者が教義や教祖を疑うことは命がけの場合も少なくありません。比較的理系に近い経済学でさえ、定説的な理論が尊重されこそすれ、現実にはバブルとその崩壊を繰り返すなど、様々な経済問題を解決に導くには程遠い状態にあるのです。

生物の免疫システムを他分野にも援用するならば、本庶教授が勧めるように、あらゆる分野において基礎研究に基づく制御面の研究にこそ力を入れるべきなのかもしれません(基礎研究の重視は、過去のノーベル賞受賞者の方々からも指摘されている…)。経済分野を見ても、‘経済は生き物’と称されながら、そのメカニズムは十分に解明されてはおらず、今日の主流である自由貿易主義やグローバリズムでも、自由な活動が奨励される一方でメカニズムとにしての制御機能が備わっておらず、上記のような失敗を繰り返しています。政治分野にあっても、独裁体制とは制御機能が欠落した体制ですし、民主主義国家でも、権力濫用や腐敗等を防ぐ権力制御、並びに、私企業による検閲的な言論抑圧を制御する仕組み造りは道半ばにあります。犯罪防止システムも十分ではなく、また、国や組織によっては、攻撃対象とする相手方の’免疫力’を削ぐ戦略を用いることもありますので、オプジーボのような対策も必要です。こうした諸問題を解決するには、時には耳に心地よい偽善をも排し、その対象を公平で客観的な視点から具に見つめる必要があります。

日常一般にあっても、誰もが納得する根拠を示すことなく、‘マニュアルに書いてあるから’とか、‘権威のある人、あるいは、前任者が言っているから’の一言で片付けてしまおうとする人も少なくありません。しかしながら、‘教科書をも疑え’の箴言は、自らの懐疑心に誠実に従い、事実を純真に追い求める心こそ、遠回りのように見えて多くの人々を救う近道であることを示しています。本庶教授のノーベル賞受賞は、思考停止状態にある人々の目を覚まさせ、‘世を治す(直す)’という意味において、思わぬ効果をもたらすかもしれないと思うのです。

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