万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

天皇慰霊の旅が抱える霊魂観問題-靖国神社との軋轢

2018年10月13日 14時18分52秒 | 日本政治
靖国神社の小堀邦夫宮司が職を辞されることとなった事件は、それが所謂‘舌禍’というものであっただけに、その発言内容と共に国民の関心を集めております。録音されていた音声記録のリークが発端であるために、何やら不穏な空気も漂うのですが、小堀宮司の発言には、実のところ、重要な問題提起が含まれているように思えます。

 問題とされた発言の一つは、「陛下が一生懸命、慰霊の旅をすればするほど靖国神社は遠ざかっていくんだよ」というものです。その意味するところは、靖国神社と天皇慰霊の旅との間に横たわる深刻な霊魂観の違いであり、両者が両立し得ないことに気付いた同宮司の強い危機感を読み取ることができます。今日、天皇慰霊の旅については、マスメディアが礼賛一辺倒の報道に徹しているため、その問題点については見過ごされがちですが、深く考えてみますと、両者の間には埋め難い溝が横たわっているのです。

靖国神社とは、日本国に殉じた将兵の方々の御霊が安まる処であり、いわば、亡き人々の魂が集う社と概念されています。たとえ異国の地で朽ち果てようとも、魂のみは亡骸から離れて懐かしき母国に帰り、戦友達と共に九段の靖国に祀られると、多くの日本国民が信じてきたのです。こうした霊魂観なくして靖国神社は存在し得ないのですが、天皇の慰霊の旅は、この観念とは相いれない側面を持ちます。それは、霊魂とは、亡くなった場所、あるいは、遺骨の存する場所に残るとする概念を前提としているからです。唯物論とは一線を画し、両者とも霊魂存在論に立脚しながらも、この相違点に注目すれば、小堀宮司の上記の発言はまさに的を射ています。天皇慰霊の旅は、靖国神社の存在意義を根底から崩しかねないのですから。

そしてこの問題提起は、日本国民にも深刻な選択を迫っております。今日にあっても、直系ではなくとも、あるいは、祀られている事実を知らなくとも、靖国神社に鎮まる英霊を親族としてもたない国民は殆どいないかもしれません。戦前には徴兵制が敷かれておりましたので、家庭にあって父、夫、子、あるいは、兄弟であった一般国民男性の多くが、若くして戦場で国に命を捧げているからです。このため、靖国神社に対する国民の意識も格別であり、靖国神社に替る国立の慰霊施設建設案が出現しては消えてゆく背景にも、根強い国民感情があるからに他なりません。殉国された方々の魂の拠り所を、後世の人々がその時々の都合で変更することには、一般的な感情として心理的な罪悪感が伴うと共に、日本の精神世界にあっては、約束を違われた英霊の祟りをも恐れざるを得ないのです。

その一方で、象徴天皇となった戦後にあっても、昭和天皇にカリスマ性が備わっていたこともあり、日本国民の多くが天皇に対して崇敬の念を抱いて生きた経緯があります。その天皇が靖国神社を否定した場合、国民は、たとえ自らの縁者が靖国神社で祀られていようとも、天皇の意向や霊魂観に同調すべきか、否か、迷うこととなるのです。しかも、中には、靖国神社の天皇参拝を支持する人々に対して天皇の意思に反する‘逆賊’のレッテルを貼ろうとする勢力も現れ、靖国否定論者が不敬罪の復活を歓迎する天皇絶対主義者に豹変するという、左右両派の逆転現象まで起きています。

かくして、一般の日本国民は‘板挟み’となるのですが、この難題から抜け出すには、些か時間を要するかもしれません。何故ならば、明治維新から第二次世界大戦、否、今日に至るまで、国際的な背景を含め、実のところ、日本国民は伏せられている情報があまりにも多いからです。そして、やがてその時に至った際には、死して日本国の礎とならんとし、大義を信じて純真な心から国に殉じた日本国民の御霊の名誉だけは、決して損なわれることがないよう願うのです。

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コメント (6)
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