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(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2025/6/8(No.1359)
‥‥‥†‥‥‥‥
聖霊降臨の主日(ヨハネ14:15-16,23b-26)
全面的に心を開く人を聖霊は満たしてくださる
‥‥‥†‥‥‥‥
「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」(14・23)皆さんにとって、このみことばがどれくらい親しみがあるか分かりませんが、中田神父にとってはとても身近に感じるみことばです。
この箇所は、病人訪問をするときに使う儀式書の中に収められているいくつかの聖書の箇所のうちの一つです。病人訪問では、御聖体を授ける前に、時間が許せばできるだけ福音書の朗読をします。みことばと聖体で、病人が養われるように、慰めを受けるようにという配慮です。
病人にとっては、月に一度のみことばと聖体拝領かもしれませんが、司祭の側からするとその日の病人訪問で何度もこのみことばを朗読していて、ときどき違う朗読を選ばないと司祭のモチベーションが下がるくらいです。しかし何度も何度もこのみことばに触れているわりには、みことばから司祭が得る学びの何と少ないことでしょう。
本日、聖霊降臨の祭日です。聖霊が炎の舌のような形で使徒たちにとどまったとあります。熱意を注ぎ、愛の炎を燃やしてくださる聖霊が注がれますが、それを受ける私たちの熱意は同じくらい有ると言えるでしょうか。同じみことばを一日に何回か読んだだけで「あー疲れた」となる司祭には、聖霊降臨の恵みをしっかりと受け取る熱意が必要です。
聖霊は、きっと同じ熱量で私たちすべてに注がれるのだと思います。ただし、それを受ける私たちの心の状態によって、結ぶ実は違うのだと思います。能力の差ではなく、どれくらい受けようとしているのか。その差が出てくるのではないでしょうか。
病人訪問をしている司祭は「同じことの繰り返しだなぁ」と内心思いながらヨハネ14章23節を読んでいます。しかし、訪問を受けている人はきっと「一ヶ月ぶりにみことばと御聖体にあずかれる」と感謝して受け取っていることでしょう。これだけを見ても、能力の差ではなく、どれくらい心を開いているか。その「差」なのだと思います。
私たちは皆、イエスが約束してくださった聖霊を受けます。聖霊の実りは、能力の差で違ってくるのではなく、どれだけ心を開いて受け取るか、その差が違いを生むことになります。お見舞いを受ける方々が、完全に心を開いて恵みを受け取ろうとしている。だから恵みは、この方々の上に豊かに実を結びます。敬虔にみことばと聖体を受ける人の前で、司祭はまったくの無力であると痛感するのです。
聖霊に心を開き、照らしと導きを願いましょう。聖霊の望みが何であるかを知るのは、心を開き、身を低くして聞き従う場所でしか与えられません。五旬祭の日、使徒たちは祈りつつ待っていました。
聖霊を受けるために、私はどれくらい心を開こうとしているでしょうか。「それは受け入れられない」と、聖霊の望みを一つ断るたびに、私たちはキリスト者としての自由を失い、注がれる賜物も流れ落ちていくのです。聖霊に満たされる体験を逃さないようにしたいものです。
‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
三位一体の主日(ヨハネ16:12-15)
‥‥‥†‥‥‥‥
‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥
▼聖霊降臨の説教を考える準備に、「教会の祈り 読書課」の第二朗読が役に立った。主の昇天以後の朗読箇所、古代の教会教父たちの説教がしばしば取り上げられるが、その中で自分の中で「いいなぁ」と思える箇所があった。
▼教会に働く聖霊の賜物なのだろうか。何百年も前に語られた説教を読み返して、中田神父は現代に語りかけている。現代から現代を読み解く鍵を得ているのではなく、古代から現代を読み解く鍵を頂いているわけだ。
‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第966回目。正しい爪の切り方。◯印の揃えかたの理屈が分からず、深爪する。

ホームページもご覧ください。
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† 神に感謝 †
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こうじ神父
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聖霊降臨の主日(ヨハネ14:15-16,23b-26)
全面的に心を開く人を聖霊は満たしてくださる
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「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」(14・23)皆さんにとって、このみことばがどれくらい親しみがあるか分かりませんが、中田神父にとってはとても身近に感じるみことばです。
この箇所は、病人訪問をするときに使う儀式書の中に収められているいくつかの聖書の箇所のうちの一つです。病人訪問では、御聖体を授ける前に、時間が許せばできるだけ福音書の朗読をします。みことばと聖体で、病人が養われるように、慰めを受けるようにという配慮です。
病人にとっては、月に一度のみことばと聖体拝領かもしれませんが、司祭の側からするとその日の病人訪問で何度もこのみことばを朗読していて、ときどき違う朗読を選ばないと司祭のモチベーションが下がるくらいです。しかし何度も何度もこのみことばに触れているわりには、みことばから司祭が得る学びの何と少ないことでしょう。
本日、聖霊降臨の祭日です。聖霊が炎の舌のような形で使徒たちにとどまったとあります。熱意を注ぎ、愛の炎を燃やしてくださる聖霊が注がれますが、それを受ける私たちの熱意は同じくらい有ると言えるでしょうか。同じみことばを一日に何回か読んだだけで「あー疲れた」となる司祭には、聖霊降臨の恵みをしっかりと受け取る熱意が必要です。
聖霊は、きっと同じ熱量で私たちすべてに注がれるのだと思います。ただし、それを受ける私たちの心の状態によって、結ぶ実は違うのだと思います。能力の差ではなく、どれくらい受けようとしているのか。その差が出てくるのではないでしょうか。
病人訪問をしている司祭は「同じことの繰り返しだなぁ」と内心思いながらヨハネ14章23節を読んでいます。しかし、訪問を受けている人はきっと「一ヶ月ぶりにみことばと御聖体にあずかれる」と感謝して受け取っていることでしょう。これだけを見ても、能力の差ではなく、どれくらい心を開いているか。その「差」なのだと思います。
私たちは皆、イエスが約束してくださった聖霊を受けます。聖霊の実りは、能力の差で違ってくるのではなく、どれだけ心を開いて受け取るか、その差が違いを生むことになります。お見舞いを受ける方々が、完全に心を開いて恵みを受け取ろうとしている。だから恵みは、この方々の上に豊かに実を結びます。敬虔にみことばと聖体を受ける人の前で、司祭はまったくの無力であると痛感するのです。
聖霊に心を開き、照らしと導きを願いましょう。聖霊の望みが何であるかを知るのは、心を開き、身を低くして聞き従う場所でしか与えられません。五旬祭の日、使徒たちは祈りつつ待っていました。
聖霊を受けるために、私はどれくらい心を開こうとしているでしょうか。「それは受け入れられない」と、聖霊の望みを一つ断るたびに、私たちはキリスト者としての自由を失い、注がれる賜物も流れ落ちていくのです。聖霊に満たされる体験を逃さないようにしたいものです。
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三位一体の主日(ヨハネ16:12-15)
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▼教会に働く聖霊の賜物なのだろうか。何百年も前に語られた説教を読み返して、中田神父は現代に語りかけている。現代から現代を読み解く鍵を得ているのではなく、古代から現代を読み解く鍵を頂いているわけだ。
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今週の1枚
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