こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第13主日(ルカ9:51-62)イエスのまなざしを最優先に置いて生きる

2010-06-27 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
10/06/27(No.482)
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年間第13主日
(ルカ9:51-62)
イエスのまなざしを最優先に置いて生きる
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金曜日、マリア文庫という活動団体からお会いして話したいことがあるということで、長崎に行きました。どんな話をしたいということは聞かされずに行ってみたら、目の不自由な方々のために活動している自分たちマリア文庫は、現在代表者が修道会のシスターになっているけれども、現在のシスターは高齢で、健康状態に不安があり、この先、代表者として体を張って活動に関わっていくことは困難ですという話を聞かされました。

まぁ、だいたいそういう場所に40代のわたしが連れてこられたということは、今後の安定した活動継続のために、神父さまにマリア文庫の代表を引き継いでもらいたいというお願いをしたいということなのですが、わたしははっきりと、お願いの仕方が乱暴過ぎやしないかと言いました。考えてもみてください。待ち合わせの場所と集合時間を知らされて、行ってみたら新しく代表を引き受けてくださいというのですから、そんな話があるかと言いたくなるのは皆さんも理解してくれるでしょう。

けれども、30年も、全国の目の不自由な方に録音を通して奉仕しているこのマリア文庫に8年間関わってきたわたしが、代表が続けられなくなろうがそんなこと関係ありませんとも言えないことはうすうす気づいてはいました。活動25周年の記念行事にも関わりましたし、30周年の祝いは前任地の馬込教会で行い、ここまで続けてこれて本当によかったと、会員の皆さんと喜び合ったのです。だから、わたしに今後の代表となって引っ張ってほしいという気持ちはわからないでもありません。

ただ、今後目指していく道筋の資料もきちんと準備していたらしいのに集まった目の前で渡され、肝心の「代表者の選任でたいへん困っている」という実情も知らされずに呼ばれてみたら、「さあ代表になってくれませんか」と言われても困るのだと、きっぱり言ったのです。それでも、2時間も駄々こねたあげくに、近い将来、目の不自由な方々に奉仕する「声の奉仕会マリア文庫」の代表にならざるを得なくなりました。

ふくふくしながら、その日長崎で外食をし、それでも目の前の仕事である日曜日の説教の準備を考えている間に、マリア文庫の現在の代表者と、中心になって働いてくれるメンバーとが持ってきた難題は、ひょっとしたらイエスさまから今のわたしに突きつけられている挑戦なのかもしれないなぁと思うようになったのです。

福音朗読を読み返してみましょう。イエスはエルサレムに向かう決意を固め、途中サマリアの町を通ります。サマリア人はイエスを歓迎しません。そこで弟子たちはイエスさまのお通りだと見せつけるために、天からの火で町を焼き払いましょうかと提案しますが、イエスはそれを望みませんでした。弟子たちはイエスとともに、歓迎されていない町の人々の間を通っていく屈辱を一緒に味わうことになります。イエスが通る道を、弟子にもついてきなさいと求めるのです。

また、弟子の覚悟を求めるさまざまな出来事も起こりました。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」(9・58)それでもあなたはついてこれるかと、尋ねている部分です。ほかにも、家族に不幸が起こったとき、あなたはわたしについてこれるかと尋ねます。これも、イエスの呼び掛けにまっすぐに従う覚悟を問うています。家族にお別れを言いに行かせてくださいという場面も、おなじです。

わたしはこれらの福音朗読箇所を読み返しながら、イエスがあなたの歩く道に目を注いでおられると気づいたとき、それにまっすぐについてこれるかと尋ねているのかなぁと思ったのです。「わたしに従いなさい」とイエスが声を掛けられた。同時に、家族を送り出してからついて行こうとしたら間に合わないとわかったとき、あなたに注がれているイエスのまなざしに、まっすぐついてこれるか。そう問いかけているのだと思いました。

そして、自分自身金曜日の出来事を振り返ったのです。「あなたにこういう十字架を担いでもらうことで、わたしに従ってもらいたいのだが、引き受けてくれるか。」そういう問い掛けだったのかなぁと、今になって思ったのです。いろいろ文句を言うことはできるでしょう。話の持って行きかたが乱暴過ぎやしないか。どうして事前の連絡ができないのか。ほかに誰かと話し合った上でのことなのか。いろいろ難癖をつけることは可能ですが、30年間のマリア文庫の歩みのうち4分の1も関わってきたわけですから、イエスさまはわたしにも目を注いでくださり、イエスのまなざしにまっすぐに従ってくれるかどうかが、今試されているのかなぁと思いました。

では皆さんにも、同じことを考えてもらいたいと思います。イエスは、すべてのことに目を注いでおられます。そのイエスのまなざしに、わたしたちはまっすぐに従おうと思っているでしょうか、ということです。福音の朗読の中で、さまざまな人が、何かを優先してから、それからイエスに従いますよと答えますが、イエスはきっぱりと、「最優先はわたしだ」と言うのです。つまり、イエスが目を留めてくださった出来事に、イエスのまなざしに、最優先に答えてほしいのです。

わたしの経験から言いますと、イエスのまなざし、イエスの望みを最優先しないなら、そのときわたしはイエスの望みをいちばん最後に回しています。イエスの期待を最優先しないなら、2番目にしているということは起こらず、たいていいちばん最後の後回しなのです。だから、イエスはご自分の望みを最優先にしなさいと言っているわけです。

わたしたちは、はっきりとであれうすうす気づいている場合であれ、イエスのまなざしを感じることがあります。このイエスのまなざし、イエスの思いに気づいていながら、それを横に置くことは、2番目3番目に回しているのではなくて最後尾に回しているはずです。そうではなく、きっぱりと、最優先に考えて答えようとするとき、わたしたちの信仰の歩みはまっすぐなものになるのではないでしょうか。

「あなたはわたしに従いなさい。」イエスはご自分のまなざしに、まっすぐに従う人を探し求めておられます。イエスの思いに従うとは、最優先に従うことと同じなのです。その覚悟を、1人でも多く祭壇上のイエスに言い表すことができるよう、恵みを願いましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼これから数週にわたって、6月22日だけで起こったことを数週にわたって書きたいと思う。それほど、1日で興味深いことがたくさん起こった。この日は初めて葬儀が入り、高井旅という教会で葬儀ミサを行った。
▼葬儀ミサの説教で、故人は教会の功労者であることを、参列者にていねいに説明した。教会の土地を寄進してくださり、教会会計を15年間も務めて、教会運営のために骨身を惜しまず働いてくれた人だった。本当に感謝してもしきれないほどで、たくさんの宝を天に積んで旅立ったのだった。
▼個人的な思い出も残してくれた。主日のミサに参加して、聖歌を高らかに歌うのだが、音程は正直言って大きく外れていた。わたしは小学校時代の音楽が「2」だったので、まったく気にしなかったが、説教の時には次のように機転を利かせて話した。
▼「『歌う人は2倍祈る』という伝統的な考え方があります。故人は音程が人の4倍くらい外れていたので、8倍祈ってくれました。そして、もうあの歌を聞くこともできなくなり、さびしい限りです。故人のミサに対する熱意、教会への愛を、受け継いでくださる人が現れることを切に願います。」
▼ほかにも話したのだが、それはまあ、伝統的な復活への希望に結びつく話なので省略する。葬儀が終わり、火葬場へ同行し、火葬の前の祈り。そして五島では習慣としてその日のうちに納骨まで済ませるので、高井旅の信徒の家でお弁当を食べながら2時間待った(次週へ続く)。

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新企画今週の1枚
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第89回目。22日から23日、伊王島からわたしの様子を見に来てくれました。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/100627.jpg

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第14主日
(ルカ10:1-12,17-20)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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