日本海の廻船の歴史は、平安後期にまで遡るようだが、江戸中期には大阪と蝦夷地を結ぶ不定期な廻船(北前船と呼ばれる)事業が成立していたらしい。河野の村は、北前船の船主たちが多く住み繁栄していたそうだが、その中でも右近家は、最盛期には30数艘の廻船を所有し、幕末には日本海五大船主の一人に数えられたという。
屋敷の規模は壮大で、材も贅沢なものを廻船で運んで使っているが、本館の内部には貴重な資料も展示されており、撮影禁止。
海沿いの平地は限られた広さしかないが、中々の茶室まである。
右近家は先をみる目をもっていたようで、明治二十年代には蒸気船を導入し、風任せの海運から一歩を踏み出している。その一隻の福井丸は、日露戦争で徴用され、旅順港の入口を閉鎖するため作戦として自爆沈没させられている。その作戦時に二名の犠牲者を出し、戦前には英雄としての扱いを受けたようだが、大事な商船を徴用された挙句、自沈というのでは、右近家にとっては複雑な想いがあったのではないだろうか。
また、明治二十九年には海上保険業に進出し、「日本海上保険株式会社」を設立した。
右近家は、船舶の輸入などもあって、海外の事情にも精通していたのではないかと思われる。昭和10年に、本館の裏山にスペイン風別館を建てている。
裏山の傾斜は急で、登るのはひと仕事。しかし、別荘は当時としては、非常にしゃれた造りである。
テラスからの眺めは素晴らしいが、おそらく全ての建築資材は人が担ぎ上げたものと、思われる。大変な手間だったと思う。
屋敷の規模は壮大で、材も贅沢なものを廻船で運んで使っているが、本館の内部には貴重な資料も展示されており、撮影禁止。
海沿いの平地は限られた広さしかないが、中々の茶室まである。
右近家は先をみる目をもっていたようで、明治二十年代には蒸気船を導入し、風任せの海運から一歩を踏み出している。その一隻の福井丸は、日露戦争で徴用され、旅順港の入口を閉鎖するため作戦として自爆沈没させられている。その作戦時に二名の犠牲者を出し、戦前には英雄としての扱いを受けたようだが、大事な商船を徴用された挙句、自沈というのでは、右近家にとっては複雑な想いがあったのではないだろうか。
また、明治二十九年には海上保険業に進出し、「日本海上保険株式会社」を設立した。
右近家は、船舶の輸入などもあって、海外の事情にも精通していたのではないかと思われる。昭和10年に、本館の裏山にスペイン風別館を建てている。
裏山の傾斜は急で、登るのはひと仕事。しかし、別荘は当時としては、非常にしゃれた造りである。
テラスからの眺めは素晴らしいが、おそらく全ての建築資材は人が担ぎ上げたものと、思われる。大変な手間だったと思う。