蕎麦喰らいの日記

蕎麦の食べ歩き、してます。ついでに、日本庭園なども見ます。風流なのが大好きです。

敦賀市  柴田氏庭園

2007-05-20 18:05:41 | 古民家、庭園
福井県は、その昔の藩にはいくつもの地域に細分化されるそうだ。その中でも、北陸トンネルが通る南越山地は県を二分する。ところが、現在では道路事情が非常に良くなり、山地越えもたいした時間はかからない。
柴田氏の歴史は江戸初期に始まる。戦国の世の政治的圧力が理不尽と成り、その結果逃散田となった村の復旧や、黒河川の沿いの新田開発など、その時代の豪農が得意とする農産物の増産を目指したようだ。


その辺の事情は、日本海沿いに新潟、山形などと基本的に変わらないように思われる。要は、海近く(海運で流通できる範囲)に新田開発等の、余地のある土地が残っているか、に左右されるのだ。


そのような蓄えにより、柴田氏は周囲に濠をめぐらした武家屋敷格の屋敷を普請する。


庭は、敦賀市から10キロ弱の野坂山を借景とする。


作庭は江戸初期とされるそうだが、確証はない。




回遊式庭園らしい味のある細部。視線をわずかに動かすだけでも、見飽きることのない新鮮な展開。


流れがとても大きな要素の庭なのだが、池へ流れ込むには、わずかの水音も立てず。そして、静寂が広がる。

今庄  そばの里

2007-05-19 18:31:17 | 蕎麦
ありがたいことに、世の中には土日祝しかやってない、という蕎麦屋さんがある。土日祝しか、蕎麦屋さんに行けない身としては、銀座界わいの店主に爪の垢でも・・・、とも思うが、お店にはそれぞれ事情がある。


お店は、百年以上になる古民家を移築したもの。場所は今庄の中心を外れているし、いろいろ寄り道してきたので昼時をはずしたはずなのだが、お店は大繁盛。次から次へと、お客が来る。


蕎麦は、ダイナミックな太打ち平麺。箸で、持ち上げる蕎麦の感触が生き生きとしていた。物惜しみしない感じのおろしと、調和する。古式で、活き活きと。これは、素晴らしい。営業日が限られれば、賑わうのも無理はない。
蕎麦の脇に茶飯が付くが、こちらは仏事にまつわるものを、出していただいているそうだ。その味付けも嬉しくいただいた。


やはり、茅葺のお店は貴重だ。

今庄  京藤家

2007-05-18 21:05:56 | 古民家、庭園
お昼にはすこし早めの蕎麦をいただいて元気を取り戻し、池田町から今庄へと向かう。今庄の数キロ手前を左に折れて、国道476号線に入る。軽い登りだが、連休とは思えないほどに道は空いていて、快適なドライブだ。瀬戸という集落まできたら、国道を外れ集落の細い道を進み、橋を渡り・・・。しかし、目的地の伊藤氏庭園は休園だ。




連休中だというのに、これで2軒目だ。いったい福井の庭園はどうなっているのだ?
あまりの事に近所の方に伺うと(こういう時は地元ナンバーではない方が、いろいろと教えてもらえる)、伊藤氏庭園は老夫婦が管理されているのだが、最近は体調があまりすぐれないらしい、との事だった。これは、しかたがない。しかし、地方の高齢化は、こんな所にも影響してくるのだ。




残念なので、辺りの風景の写真を撮った。こんな風景の中に庭を造ったら、さぞやというものができるだろう。
回れ右、で今庄をめざす。


今庄は宿場町で、木曾の奈良井の町によく似ている。江戸時代には、北国街道で一番栄えた宿場だったそうだが、今は町全体がひっそりとしていて、古い建物が結構残っている。




この見事なうだつが上がっているのが、京藤家。江戸の建築だ。京藤家は代々造り酒屋で、宿場町では珍しく、屋敷を敷地一杯に建てるのではなく、庭を配していたらしい。街道を通じてさまざまな情報が各地から入って来たにちがいない。密談のできる構造(その部分には二階が無いとか)の座敷も用意していたそうだ。


京藤家の斜め向かいが、鳴り瓢の蔵元のようだ。


札所の跡。それなりの庭があるように見える。

池田屋  ふるさと道場

2007-05-17 21:47:44 | 蕎麦
梅田家の前で庭が開くのを待ちながら、早くから蕎麦を食べられる店が有るか調べたら、9時半から開いているお店があるではないか。10時半になっても門が開かないので、梅田家は諦めて、蕎麦を食べに行くことにした。


数分で到着。池田町産の蕎麦を石臼挽きにした蕎麦だという。


やはり、産地で食べる蕎麦はいいものだ。梅田氏庭園を見られなかったのは残念だが、池田町というのはなかなかよい所だ。

池田町  堀口家住宅

2007-05-16 21:52:51 | 古民家、庭園
池田町は、鯖江市の中心部から車で30分かからないくらいだが、緑が多く長閑な所である。国道沿いに並ぶ家々の裏は、すぐに畑になっていて、町中にいる、という感じはしない。その一画、国道からは少しだけ入ったところに、堀口家がある。




17世紀半ばの建築と推定されるらしい。なかなか状態も良く、丁寧に手入れされている印象を受ける。




この家でも、自然の曲がりのある梁が、上手く利用されている。入ってすぐ左手は、馬屋。池田町は雪深く、冬場は馬も家の中で飼っていた。


かつては、庭もあったのだろうが、現在は家の周りは空き地になっていて、ちょっと殺風景である。まるで、どこかから臨時に移築されたかのように見えてしまう。家だけを保存するのではなく、家の建っている環境をも保存してもらえると、最高なのだが。




池田町では大野氏庭園も名勝として公開されているはずなのだが、この日は家の門は閉ざされたまま。10時半まで待ってみたが、そこで諦めた。

鯖江  佐野蕎麦

2007-05-15 21:10:08 | 蕎麦
佐野さんという、若い男の方がご主人なので佐野蕎麦です。


鯖江で生まれ育った方なのですが、福井の標準とは非常に異なるお蕎麦を出します。


まず、こちらのお店には、ぶっかけのスタイルの蕎麦はありません。皿や、陶板に載って出てきます。そして、その蕎麦の繊細なこと。東京や信州のごく限られたお店では、このくらい繊細な蕎麦を出しますが、伝統色の強い福井でこのような蕎麦にめぐり合うとは、夢にも思いませんでした。


この日は、おしぼりをお願いしたので、薬味のネギとかつお節は付いてきました。他には、もり、塩蕎麦(塩を付けて食べる)、味噌蕎麦(自家製味噌を付けて食べる)があります。どれも、ぜひ試したいところです。
ちなみに、ご主人の佐野さんは「だいこん舎」のご主人、南さんのお弟子です。お店を始めて半年にして、この蕎麦は驚異的です。

朝倉氏一乗谷遺跡

2007-05-14 21:21:38 | 古民家、庭園
朝倉氏は1471年に越前の守護大名に任命されると、足羽川からその支流の一乗谷川沿いに入ったこの地に城を築いた。一乗谷川は白椿山の麓を流れる川で、川の周りの平地は限られた広さしかない。そこに城だけでなく、武家屋敷が建ち並び、北陸の小京都といわれる朝倉文化が栄えたという。しかしそれも、1573年織田信長により一気に攻め落とされ、当時の建造物は何一つ、残っていない。ただ、石でできた城跡、土台の跡、庭の石組みなどが残されているに過ぎない。




しかし、1967年からの発掘調査により、大変な文化が存在したことが、分ってきた。
こちらは、諏訪館跡で、五代目義景の愛妾の住まいといわれる。平地が限られるだけ、スケールの大きい庭造りは出来ないが、必然的に生ずる傾斜を利用して流れの扱いが見事である。


庭は上下、二層にわかれ、上部には遣水も。




庭跡というのは不思議なもので、これくらいに復元されると、充分な魅力が感じられる。例えば古民家として壁や柱の一部が残っています、という遺跡を訪れてもこれほどの魅力を感じることが出来るだろうか。






こちらは義景館跡。使われている石の数に圧倒される。

鯖江市  だいこん舎

2007-05-13 11:46:00 | 蕎麦
そもそも、私が福井に旅するきっかけとなったのは、こちらのお店である。ご主人は、鯖江のご出身でありながら、鯖江という枠を超えた蕎麦を打たれる。前回、伺ったときは、太打ちのくるみそば。カルボナーラのように柔らかい味に仕上がったくるみのペーストが蕎麦にからんで、最高だった。


今回は、おしぼりそばにしようと、秘かに心に決めていた。福井に居る間は、おしぼりやぶっかけの系統に絞って、いろいろな蕎麦屋を食べ較べようと。
そして、どうせなら蕎麦は太打ち。太めの蕎麦をかみ締めるうちに、蕎麦の香りが口中に広がる。




きりりとした蕎麦の姿。なにか、心をうつものがある。汁は、本当に甘みを押さえたもの。たしか、生醤油のみと伺った記憶があるが。


今回、同行された方が、水蕎麦を注文された。うーん、これも凄く良さそうだ。写真だけ、撮らせてもらったのだが、姿を見ると、いまだに心が騒ぐ。

旧橋本家

2007-05-12 18:56:09 | 古民家、庭園
福井の寺といえば、まず思い浮かぶのは曹洞宗本山の永平寺だろう。仏教の事は良く分らないが、曹洞宗の寺で永平寺に次ぐのが、宝慶寺だという。越前大野からのどかな田舎道を走ること、だいたい30分。谷沿いの道が山に突き当たるような場所に、宝慶寺が建っている。
しかし、今回の目的地は寺ではなく、橋本家という古民家である。行ってみるまで分らなかったが、橋本家は宝慶寺の門前にある。この家の主が曹洞宗の信徒で、家を寺に寄贈し、この場所に移築したらしい。


確かに、よく手入れされているが、門前というと、ついでにここに置いてあります、というような感じがして、古民家らしい存在感はあまり感じられない。越前大野のさらに外れに立つ、代々の庄屋格の存在感を期待していたのだが、ちょっとがっかり。なお、管理は大野市による。




囲炉裏には火が入り、もう馴染みとなったいぶり臭い煙がただよう。建築年代は、江戸中期の18世紀だそうだ。下座敷、神座敷もあり、当時としては大変な造りなのだろう。これだけ山深い場所での生活には、さぞや苦労があっただろう。




この日は、宝慶寺では大きな行事が行われたのか、橋本家の前庭はVIP用の駐車場として使われていた。


平泉寺 白山神社  旧玄成院庭園

2007-05-11 23:10:38 | 古民家、庭園
白山は、遠く加賀との国境からも見事な白い姿を望むことが出来る。
古来、信仰の対象となるも何の不思議も無い。名を神社としようとも、寺であっても、初夏になっても雪に覆われる山への畏敬の念を抱く庶民の心には、何の変わりも無いだろう。


この寺の歴史は古く、700年代前半の創設という。また平安の昔、京都から公家が白山に詣でるのに、このお寺を経由したという。京都から福井などを経由して白山へ参拝しようとするならば、勝山市から谷沿いに麓まで詣でるのが、一番地形からしても楽に感じられる。
白山平泉寺は、そのルートよりも僅かに南側、直線距離は短いが、より上り下りの厳しい路が、山に向かって開かれている。




確かに、この奥に白山があるのだろう。路は霊峰を目指すのだ。しかし、その道のには、どれだけの障害が待っていたのか。

奥の院とも言うべき平泉寺のかなり手前に、旧玄成院庭園がある。成立年代は、はっきりしていて、北陸最古の庭園である。時代の付いた杉の木が辺りを覆い、足元は分厚い苔が。妖しい魅力を感じるのだが、案内の方によれば、この杉や苔は庭園創立当時から庭園の環境要素として計算されたものでは無いとの事。




成立当時の理念をさぐるには、石組みを頼りにするしか、手立ては無いようだ。研究者によれば、灯篭は後世に付け加えられたものらしいが、踏み石は創立当時からのものが残っているそうだ。


この先に池があり、水の豊かな場所なので、この石組みは納得できる。


この苔も、そして苔を培った杉林も、庭園様式とは無関係といわれれても、その場にいる身としては、そうは割り切れない。不思議なほどに、分厚く地表を覆う苔は、創立当時の庭園理論書には出てこなくても、作庭家の眼に入らないはずは無いと思われる。
庭は、自然の素材相手なので、これ程の材料があるならば、苔を前提にした庭としても、不思議は無いように思われる。