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『陸に上がった軍艦』、実は私もそこにいた~本屋の窓から①

2007年12月09日 | 本屋の窓から

 ■映画のことはすべて本当にあったこと
 8月に公開された映画『陸に上がった軍艦』は、原作・脚本・証言者として出演している新藤兼人監督(以下新藤)の海軍二等兵としての実体験にもとづいている。監督・山本保博。

 時は1944年。新藤は、脚本家として認められたときに妻を亡くした。その直後に呉海兵団に海軍二等水平として召集される。最後は宝塚海軍航空隊で敗戦を迎えるまでの過酷な軍隊の日常を、ドラマの部分で描いている。
 陸軍の内務班(居住区)の非人間的残酷さを描いたのが『真空地帯』(山本薩夫監督)なら『陸に上がった軍艦』はその海軍編といえます。映画で描かれた話は事実です。私も同時期、新藤と同じ宝塚海軍航空隊で、甲種飛行予科練習生として実体験したからです。

 新藤と呉海兵団に同期入隊した兵士は100名。全員が奈良天理市の航空隊に転属。海軍が接収した天理教本部を予科練の航空隊にした。入隊前の宿舎の掃除、整備が任務だった。任務が終わると100名の内60名が比島マニラ派遣途中、輸送船が攻撃され全員戦死。次に30名が潜水艦に乗船したが消息を絶った。残った10名が雑役班として、今度は海軍に接収された「宝塚少女歌劇団」の施設、宝塚海軍航空隊に異動。大量の予科練習生を迎えるため掃除、改修を行った。途中で4名が海防艦に移り(消息不明)、結局6名が残った。練習生が入隊後は、風呂焚き、肥え汲みなど裏方の仕事を敗戦まで続けた。

 『陸に上がった軍艦』とは、班長の訓示、「われわれは、軍艦に乗っているのである。陸に上がってもすべて軍艦にいるとおりにやる」に表れている。軍隊とは、暴力で人間を支配し、思想と理性を奪い、命令どおりに動く殺人兵器に鍛え上げていく所である。
 映画の中の「海軍精神注入棒」は、私たちの場合は樫ではなく青竹だった。ヘマをすれば、尻にバットを喰らい、ビンタが飛ぶ。海軍では1人のミスが艦の運命に関わるので、全体責任として班全員が注入棒の洗礼を受けた。1人の鈍くさい練習生のミスに全員が何度も何度も撲られ、飯抜きになる。それが耐え切れなくなって阪急電車に飛び込み自殺したものもいた。

 屋上には高射機関銃が据付られており、米機グラマンと銃撃戦が行われ、兆弾が怖かった。また、甲山までの演習行軍中襲われたこと、川西航空機工場の空襲で夜空を火が焦がしたこと、対戦車特攻の訓練など、いずれも練習生も体験した事実である。
 敗戦の2週間前、淡路島の旧要塞補強のため16期生が渡海中、米軍機の攻撃を受けて76名が戦死した。その遺骨が宝塚航空隊に還ってくるシーンがある。整列して迎える練習生の中に、酒井猛さん(元日本共産党吹田摂津地区委員長)の若き姿があった。(酒井さん、了解もとらずごめんなさい)。

 ■100人入隊し生き残ったのはわずか6人
 敗戦を告げる天皇のラジオ放送を、新藤は士官当直室前で、私は大劇場に集められて聴いた。下士官の中には徹底抗戦を叫んで軍刀を振り回すものもいた。私たちは、気持ちが落ち着くと「死ななくてすむ」という安堵と「これからどうなるのか」という不安の夜を過ごした。

 新藤は「100人招集されて生き残ったのは6人。94人は1人ひとり家庭を大事にしようと一生懸命働いていたわけです。それを引き裂くということが起こるのが戦争なんですよ」という。
 生前の兵士に届いた妻のハガキには「今日はお祭りですが、あなたがいらっしゃらないのでは、何の風情もありません」と。生きて再び夫に逢うことのなかった妻の哀しみ。国家は耐え忍ぶことを強要し、靖国の妻として名誉を与えた。何が嬉しかろぞ。
 映画を観ての帰り、余談でカミさんが「あなたの〝考える前に跳ぶ〟無鉄砲さは、予科練志願から始まっているのね。えらい人(トンデモイナイ人)と一緒になったもンです」と皮肉るが、今はもう跳ぶ力はありませんです。ご安心を。ハイ。(尾) 
 

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