心の色を探して

自分探しの日々 つまづいたり、奮起したり。
マウス画・絵及び文章の著作権は このブログ作者(けい)にあります。

ちょっと悲しかったり楽しかったりとか

2016年06月23日 | ほんのすこし
毎日、あっという間にすぎていって、なんとなく自分がどこにいるのかわからなくなっていったりします。
でも、わかるのはわたしがするべきことはこれなんだってこと。
今は母を生かすために出来る事はなにかって。

でもね。わたしってだめちゃんりん。そこまで出来ない。適当にやり過ごしている。今日だって母の話を適当にながしていた自分がいる。もしかしたらもっと話を聞いてほしかったかもしれないのに。
帰ってきてから後悔だらだら。
哀しいこととか楽しいこととか、自分ひとりだとそのままやり過ごせばいいのだけど、相手がいるとなると全然違うなあ。今はほとんど母との生活なのだけど、他にも子供たちとかあれこれ出てくるけどね。
悲しいこととか楽しいことって、自分が思っている以上や以下のことがあって、そのたびに驚きがある。
相手のリアクション次第でなんだかなあって思ったり。えっこんなことで? といった感じで感激されたりすることにびっくり感があったり。

自分の尺度で世の中を見てはいけないってことなんだなって、反省しきり。


ちょっと悲しいことに当てはまるかどうかわからないけど、わたしはのけ者にされている感が半端ない(笑)。
会社でだけどね。
でもそれがまたいいのよね。ありがたいことだなって思ってるわけ。だって母の世話を一番に出来るのだもの。それが出来てなんぼのものよ。
母とふたり、良かったねと感謝してもしきれないねと話しているのだけど。
それでも、わたしが必要とされていない事への悲しさは残るわけで・・・
まあ、それとこれがうまくかみ合って、今が有るのかなと思っているわけで(笑)。

いつか施しを受けなくても自力で生活をしていけるぐらいになりたいなと願っているわたしなのよ。

裏庭から採ってきて挿したのですね

2016年06月23日 | 母のこと
昨日、母のところで見つけた花瓶。
裏庭に咲いている百合とスグリです。先日裏庭を見たときにもう少しで百合も咲くのだろうなあと思って見ていたのですが、とうとう咲いていたのですね。
母は歩くのが大変で、膝ががくがくボキボキと鳴るほどです。ソロソロと歩くので、人の何倍も時間がかかります。それでも一日に一度は外に出て狭い庭を眺めたりするのが大好きなのです。
調子が良ければ草取りも少しやっているようですが、こんな風に咲いている花とかを摘んできて一輪挿しに挿したり、花瓶を出してきたりしています。この花瓶だって母にしてみれば重かったはず。手が痛いので重いものは持てないのです。
きっと、脇に挟みながら物置から出してきたのでしょう。

今回お風呂と台所をリフォームするに当たり、大工さんに追加で物置も綺麗にして頂きました。
わたしも母も今回のリフォームで一番やって良かったのは物置だよね! と言い合うのが口癖になったほどです。段差もなくなり、足の痛い母でも行けるようになりました。床もフローリング仕様になりました。スリッパを履くと逆に転んでしまうので、母にとってはとても助かるのです。
その物置、あれこれとあった物を処分したり、整理したりして棚の一部を空けました。そこに母が持ってこらせたのが、何個かある花瓶。花瓶が多いんです。それも大きな花瓶が。
そのときどきによって好きな花瓶をすぐ出して使えるようになりました。

痛くてもこの百合とスグリを飾りたい、という気持ちが強かったのでしょうね。

わたしは母の美的感覚が好きです。
ゴチャゴチャしたものではなく、シンプルなものや飾るにしても少ないものを、という感じ。挿すなら沢山ではなくて、数本。あるいは一本だったり。
スッキリした感じが好きなのだと思います。だから部屋に物が多くなってきたり、散らかってきたりすると気分が悪くなり、寝ていても起き出して片付け始めたくなるようです。でも最近は思うように体を動かせないので、わたしが行くと途中までやって後はどうしようも出来なくなった布団たちとかが部屋に重なっていたりすることがあります。
「母さん、これどうしたの?」と言うと、すまなそうな顔をして
「いやぁ、ベッドの頭の向きを反対にしようと思ったんだけど、これ以上なんも出来なくなってしまってさ。おまえが来たら頼もうと思ってそのままだよ」
「最初からわたしがやるのに」
「少しでもやっておけばお前も楽かなと思ってさ」
「・・・」

こんなことが何度もあります。

つい数日前には母が楽しみにしている午後三時からの韓国ドラマを珍しくわたしも一緒に見ていました。面白くて引き込まれていたのですが、CMの合間にふと母が
「外にある君子蘭、前庭の土の上に置いてくれないか。モミジが風通し良くなったから、その下に置けばいいと思うんだ。お前が帰るときでいいから」と言いました。
次のCMの時に、すぐ外に出て作業を終えて中に入ると母がわたしを呼ぶ声がします。
「どこへ行っていたんだ? せっかく今いいところだったのに」
ドラマが佳境を迎えていたらしく、わたしがそこにいなかったことが不満だったようです。
「いい所は一緒に見るのがいいんだよ」
「はいはい」
二度返事でごまかして続きを見ました。

次の日、縁側を空け洗濯物を干していると母が下を見ろといいます。
すると下のコンクリートが綺麗になっているではありませんか。
ちょっと自慢げに母が「昨日、お前が行ったあとを見たら鉢がみんな土に寄せてあっただろ。だから鉢がなくなった後を水で綺麗にしたんだよ」と言いました。なるほど、それをしたかったのね。
「後でホースを片付けておいてくれないか。途中までやったけど、疲れてそのままだから」
「はいはい」
とまたまた二度返事。早速ホースを片付けましたよ。

こんな風に最初から最後までわたしにやらせないで、自分が少しでもやりたいみたいです。
年をとっても自分の仕事があるということが、生きる力になるのかもしれないと母を見ていると思えてきます。