マダムようの映画日記

毎日せっせと映画を見ているので、日記形式で記録していきたいと思います。ネタバレありです。コメントは事前承認が必要です。

ホーチミン市とアンコールワットの旅ーその6ー

2012-10-18 19:21:35 | 旅行

シェムリアップ2日目

私は疲れていたし、前日が大雨だったので、日の出ツアーはパスしました。

でもグループの中でふたりの人が、前の晩バルコニーから空を見たら星が一つ出ていたので、ホーさんにお願いして日の出ツアーを決行したら、見事な朝日が見えたそうです。

よかったですねー。

 

朝食をすませてアンコール・トムへ。

台風はどこに行ったんだろう。

いいお天気になりました。

アンコールトムは、12世紀後半にジャヤーヴァルマン7世によって建設された城郭都市遺跡。

世界遺産。 

1辺3キロメートルの堀と、ラテライトで作られた8メートルの高さの壁で作られています。

南大門、北大門、西大門と、東には勝利の門と死者の門があるということです。

これは南大門。

堀に架けられた橋の欄干は、乳海撹拌伝説がモチーフになっています。

手前は大蛇の頭です。

仏像の頭は切られていて、修復された仏塔が置かれているものもあります。

アスラ像越しに見た堀。

 

アンコール・トムはバイヨンと呼ばれる塔がありますが、南大門にも仏が彫られていました。4面全部顔や表情が違います。

   

参道にも猿がいました。

お城の入り口。

警官が不正なガイドがいないか確認していました。

 

お城の塀には、戦争の様子が彫刻されていました。

兵隊さんや、中国兵、少数民族、音楽隊なども描き分けられていて、最後には家族連れの民衆とその生活の様子もユーモラスに描かれていました。

ゆっくり見たら、楽しいでしょうね。

   

上へ上へと登って行きます。

階段の手すりにも装飾されています。

  

アプサラの像。

きれいですね。

アンコールトムの中央のバイヨンと呼ばれる塔、どの塔も4面とも仏像の顔が形作られていて、どの顔も違っています。

  

塔に装飾された4面の仏像。いろんな表情があります。

出口。

ここにもアプサラが。

  

広大な敷地には菩提樹の大木が。

葉はハート形です。

  

これはバイヨンの北側にあるパフーオンという建物。

子供を隠すという意味を持つ建物。

敵に襲われたときに子供を隠したのでしょうか?

池に移ってきれいですね。

空中の橋を渡って行きます。

  

急な階段を上って塔のてっぺんへ。

塔の上からみた景色。

ホーさんが言っていた涅槃てどこかなあ?

回廊を歩き回ります。

「なかったよー」と降りて行ったら、ここですよって。

自分たちが歩き回っていた下に、お釈迦様がいらっしゃいました。

 

わかるかな?

 

広いところに出てきました。

象のテラスです。

 

ここで、戦争の前に戦士たちの士気を高めたそうです。

玉座の下に描かれているのはガルーダです。

ガルーダは人間の胴体と鷲の頭部、嘴、翼、爪を持つ、神の乗り物です。

 

王様はここから、小屋から小屋へとつなげた綱を美女たちが綱渡りをする姿を眺めたそうです。

この小屋、「ハルクの動く城」みたいと誰かが言っていました。

本当にその通り!!

  

塀にも細かい彫刻がありました。

ここは、ライ王のテラスと言われている場所。

壁の裏は迷路になっていて、ここにも細かい彫刻があります。

これは蛇。

これはえんま様です。

そして、これがライ王と呼ばれている像。

この手がないのは、始めからなのか、何かの事象でなくなったのかはわからないそうです。

三島由紀夫がこの象に着想を得て、戯曲「癩王のテラス」を書いているそうですが、知りませんでした。

 

ホーチミン市とアンコールワットの旅ーその5ー

2012-10-18 19:10:29 | 旅行

【閑話休題2】乳海撹拌(ヒンドゥー今日の天地創造神話)

アンコールワットの回廊には、いろんな神話が描かれていました。

その一つをご紹介。

インドの天地創造の物語です。

ショーで見た舞に登場したアプサラ(天女)が、誕生したわけも描かれています。

 

ヒンドゥーの最高神ヴィシュヌ神の化身である巨大亀に大マンダラ山を乗せ、大蛇を絡ませて、神々(インドラ)は大蛇の尾を、アスラたち(悪神)は大蛇の頭を持ち、互いに引っ張りあうことで山を回転させると、海がかき混ぜられた。

 アスラが蛇の頭を持って引っ張っています。

海に棲む生物が細かく裁断されて、やがて乳の海になった。

 下の方に描かれているのが亀

 上の方にアプサラが描かれています。

大蛇が苦しんで口から毒を吐くと、シヴァ(破壊の神)がその毒を飲み干したため事なきを得たが、彼の喉は毒によって青く変色した。

さらに1000年間攪拌が続き、乳海から白い象や、馬、牛、宝石、願いを叶える樹、聖樹、アプサラたち、ヴィシュヌの神妃である女神ラクシュミーらが次々と生まれた。

 蛇を引っ張っているところ

最後にようやく天界の医神ダヌヴァンタリが妙薬アムリタの入った壺を持って現れた。

しかしアムリタをめぐって神々とアスラが争い、一度はアムリタを奪われかけたが、ヴィシュヌ神は機転を利かせて美女に変身し、アスラたちを誘惑した。

アスラたちは美女に心を奪われ、アムリタを手渡した。

その結果、アムリタは神々のものとなったが、神々がアムリタを飲むさいにラーフというアスラがこっそり口にした。

それを太陽神と月神がヴィシュヌ神に伝えたので、ヴィシュヌは円盤(チャクラム)でラーフの首を切断した。

ラーフは首から上だけが不死となり、頭は告げ口した太陽神と月神を恨み、追いかけて食べようと飲み込むが体がないためすぐに外に出てしまう(日食・月食)。

 

 

ホーチミン市とアンコールワットの旅ーその4ー

2012-10-18 19:00:33 | 旅行

アンコールワット内部

同じ民俗が殺し合う内戦の悲劇をようやく乗り越えたカンボジアです。

ホーさんのガイドする言葉の端々にも、深い傷跡を感じました。

フランス、インド、日本など、たくさんの国の協力で、遺跡の復原の努力もなされていました。

 

この記念写真のポイントまできたら、雨は上がりました。

きれいな姿が撮れました。

 

芝生には野生の猿が。

十字回廊の内部。

ここは、雨を貯めておくところ。

排水機能もあります。

これだけの雨量ですから、雨との付き合い方も大切ですね。

 

 サンスクリット語で書かれた柱。

 森本一房が書いたと言われる柱。

いまは、読めません。

 

塔の下。

急な階段を上って塔の上へ。 

塔の柱に刻まれた天女(アプサラ)

 塔の上から見たところ。

(?)の置物。

 蛇の上で座禅を組んでいる仏像。

塔の中庭。 

 塔の内部は空洞で、仏様が安置されていた。

違う塔には涅槃が。

 

塔から降りてまた回廊の見学。

昔はこんなふうに天井には木のパネルがはまっていた。

これは、フランスによる修復。

 

本当はここで夕日を見る予定でした。

雲が厚くても、ロマンチックな気持ちになりました。

アマゾンアンコールレストランで、ショーを見ながらビッフェスタイルの食事。

はっきり言って美味しくありませんでした。

舞台ではあでやかなアプサラ(天女)の舞が。

 

ホーチミン市・アンコールワット旅行ーその3ー

2012-10-18 18:46:03 | 旅行

ホーチミン市から空路シェムリアップ(カンボジア)へ

さて、ホテルでゆっくり朝ご飯を食べて、空港へ出発。

シェムリアップまでは、約1時間の旅です。

  シェムリアップ空港

 ガイドのホーさん。

日本で勉強したわけではないそうですが、とてもきれいな日本語を話されます。

 カフェモイモイでいただいたワンプレートランチ。

空港に着いたときには、降っていなかった雨が、ランチをいただいていると次第に強くなってきました。

台風が来ているそうです。

そして、アンコールワットに着くとこんな雨。

子供たちは元気にお堀に飛び込んでいました。 

 

 

【閑話休題1】アンコールワットについて

サンスクリット語でアンコールは王都、ワットは寺院。

12世紀、アンコール王朝のスーリヤヴァルマン2世によってヒンドゥー教の寺院として30年を越える歳月をかけて建設されたが、未完成で終わっている。

世界遺産。

 

1431年にアンコールは放棄され、王都はプノンペンに移った。

16世紀半ばにアンチェン1世に再発見され、未完成部分に彫刻を行い、その孫ソター王が仏教寺院へと改修した。

 

1632年には、日本人の武士・森本一房が、父母の菩提を弔うため、インドに向け出発するが、たどり着けず、アンコールワットを訪れ、柱に墨書を残し、仏像を安置したと伝えられている。

 

1887年、カンボジアが仏領インドシナとなり、フランスが保全修復を行った。

1949年にフランスから独立。

ベトナム戦争が始まると、アメリカや南北ベトナムが介入して内戦状態になった。

 

1972年、カンボジア内戦により、フランスがアンコールワット修復から退去、寺院はポル・ポトが率いるクメール・ルージュによって破壊された。

このときに、多くの奉納仏は首をはねられ、砕かれて敷石にされたと言う。

197916日までの38か月20日間に、旱魃、飢餓、虐殺などで100万~200万人以上ともいわれる死者が出た。

この死者数は、1970年代前半の総人口は700800万人だったとの推計されているので、1329%にあたる。 

思想改革という名の元で、虐殺が行われた。教師、医者、公務員、資本家、芸術家、宗教関係者、良識ある国民のほとんどが捕らえられて強制収容所に送られたが、生きてそこから出られたのはほんのわずかな人数である。

それ故に明確な犠牲者数は得られず、今でも、国土を掘り起こせば多くの遺体が発掘される。(内戦前の最後の国勢調査が1962年であり、それ以後の正確な人口動態がつかめておらず、死者の諸推計に大きく開きが出ている)。

1979年にベトナム軍が侵攻しポル・ポト政権を打倒。

その後ポル・ポト派含む三派とベトナム、ヘン・サムリン派との間で内戦が続いた。

 

政権を追われたポル・ポト派は、旧都アンコールに落ち延び、アンコール・ワットの守りの堅さを利用して立てこもった。

カンボジア軍にとっても、アンコールワットは大切な遺跡であり、攻めあぐねる結果となった。

これらの要因が災いして、アンコールワットはさらに破壊された。

ポルポト派は共産主義であり、仏像は無用の物だったからだ。

 

その後も内戦は続き、中国軍のベトナム介入に対する報復や、ベトナム軍による介入などが続き、カンボジアは国を二分して闘う悲劇に見舞われた。

 

1986年に政権に着いたチュオン・チン書記長は、ソ連のペレストロイカを倣い、「ドイモイ」路線に舵を切った。

1990年に東京で「カンボジア和平東京会議」、1991年にパリで「カンボジア和平パリ国際会議」が開かれ、20年に及ぶ内戦がようやく終結した。

 

1998年にポル・ポトは、部下のタ・モクに逮捕されたのち、心臓マヒで死んだ。

2009年からカンボジア特別法廷は、この大虐殺についての検証を行っている。

 

カンボジアでは、この大量虐殺により、ほとんどの法律家が殺害されていて、法律やその資料も廃棄された。

カンボジアが近代国家として再生するには、なにもかもがゼロからの出発となった。

カンボジア憲法には、内政不干渉、紛争の平和解決、永世中立が明記されているそうだ。

 

心痛む歴史です。

 

ホーチミン市とアンコールワットの旅ーその2ー

2012-10-18 18:25:43 | 旅行

第2日目午前中 ボンバン大学

ホンバン大学へ。

着付けのモデルをしてくれた学生。

この人は、去年まで大阪の大学に留学していたそうです。

 

会場の様子。

着付けが終わると、みんながカメラを持ってモデルさんを囲みました。

 

午後は市内観光

出前授業を終え、学生さんたちに案内されて、レストランへ。

ここのお料理がおいしかった。

写真は肉団子入りのフォー。

 

午後は、市内の見学。

統一会堂。

ベンタイン市場。

お花屋さんと果物屋さん。

市場の中はたくさんのお客さんでいっぱいです。

私も学生さんに手伝ってもらって、たくさんお買い物をしました。

かわいいバッグやサンダル、ぬいぐるみなど、かわいい物ばかりで選ぶのが大変。

 

夜は、フォンちゃんにスロバキアビールのレストランに案内してもらいました。

店内は若い人でいっぱい。

お店の中にピカピカ光るビールのタンクがあって、作り立ての美味しいビールをいただきました。

 

次の朝

お部屋から見たホーチミンの町。

遠くにサイゴン川が見えます。

今回はあわただしくて、川のそばまでいけませんでした。

今回の出前授業、なかなか好評だったということなので、また行く機会があるかもしれません。

次回はサイゴン川クルーズもしたい!!