ホーチミン市から空路シェムリアップ(カンボジア)へ
さて、ホテルでゆっくり朝ご飯を食べて、空港へ出発。
シェムリアップまでは、約1時間の旅です。
シェムリアップ空港
ガイドのホーさん。
日本で勉強したわけではないそうですが、とてもきれいな日本語を話されます。
カフェモイモイでいただいたワンプレートランチ。
空港に着いたときには、降っていなかった雨が、ランチをいただいていると次第に強くなってきました。
台風が来ているそうです。
そして、アンコールワットに着くとこんな雨。
子供たちは元気にお堀に飛び込んでいました。
【閑話休題1】アンコールワットについて
サンスクリット語でアンコールは王都、ワットは寺院。
12世紀、アンコール王朝のスーリヤヴァルマン2世によってヒンドゥー教の寺院として30年を越える歳月をかけて建設されたが、未完成で終わっている。
世界遺産。
1431年にアンコールは放棄され、王都はプノンペンに移った。
16世紀半ばにアンチェン1世に再発見され、未完成部分に彫刻を行い、その孫ソター王が仏教寺院へと改修した。
1632年には、日本人の武士・森本一房が、父母の菩提を弔うため、インドに向け出発するが、たどり着けず、アンコールワットを訪れ、柱に墨書を残し、仏像を安置したと伝えられている。
1887年、カンボジアが仏領インドシナとなり、フランスが保全修復を行った。
1949年にフランスから独立。
ベトナム戦争が始まると、アメリカや南北ベトナムが介入して内戦状態になった。
1972年、カンボジア内戦により、フランスがアンコールワット修復から退去、寺院はポル・ポトが率いるクメール・ルージュによって破壊された。
このときに、多くの奉納仏は首をはねられ、砕かれて敷石にされたと言う。
1979年1月6日までの3年8か月20日間に、旱魃、飢餓、虐殺などで100万~200万人以上ともいわれる死者が出た。
この死者数は、1970年代前半の総人口は700~800万人だったとの推計されているので、13~29%にあたる。
思想改革という名の元で、虐殺が行われた。教師、医者、公務員、資本家、芸術家、宗教関係者、良識ある国民のほとんどが捕らえられて強制収容所に送られたが、生きてそこから出られたのはほんのわずかな人数である。
それ故に明確な犠牲者数は得られず、今でも、国土を掘り起こせば多くの遺体が発掘される。(内戦前の最後の国勢調査が1962年であり、それ以後の正確な人口動態がつかめておらず、死者の諸推計に大きく開きが出ている)。
1979年にベトナム軍が侵攻しポル・ポト政権を打倒。
その後ポル・ポト派含む三派とベトナム、ヘン・サムリン派との間で内戦が続いた。
政権を追われたポル・ポト派は、旧都アンコールに落ち延び、アンコール・ワットの守りの堅さを利用して立てこもった。
カンボジア軍にとっても、アンコールワットは大切な遺跡であり、攻めあぐねる結果となった。
これらの要因が災いして、アンコールワットはさらに破壊された。
ポルポト派は共産主義であり、仏像は無用の物だったからだ。
その後も内戦は続き、中国軍のベトナム介入に対する報復や、ベトナム軍による介入などが続き、カンボジアは国を二分して闘う悲劇に見舞われた。
1986年に政権に着いたチュオン・チン書記長は、ソ連のペレストロイカを倣い、「ドイモイ」路線に舵を切った。
1990年に東京で「カンボジア和平東京会議」、1991年にパリで「カンボジア和平パリ国際会議」が開かれ、20年に及ぶ内戦がようやく終結した。
1998年にポル・ポトは、部下のタ・モクに逮捕されたのち、心臓マヒで死んだ。
2009年からカンボジア特別法廷は、この大虐殺についての検証を行っている。
カンボジアでは、この大量虐殺により、ほとんどの法律家が殺害されていて、法律やその資料も廃棄された。
カンボジアが近代国家として再生するには、なにもかもがゼロからの出発となった。
カンボジア憲法には、内政不干渉、紛争の平和解決、永世中立が明記されているそうだ。
心痛む歴史です。