韓国国民の変化

韓国国民の変化      2019.03.25.

韓国に最初に行ったのは、1980年で、朴槿恵元大統領の父親が暗殺された翌年であった。暗殺時に飲んでいたとされるシーガスリーバルが持ち込み禁止になっていたので、よく覚えている。この時には38度線の非武装地帯のフェンスの見えるところで、ネズミの調査を行った。この時には、阪大の微研の科研費であったので、あまり自由はきかず、生きているタイを唐辛子鍋で食べるような不便さがあった。

それから2年ほどして、知り合いの先生から韓国の留学生を依頼された。彼は学位を取って帰国し、プサンの東亜大学の助教授になった。彼は環境保護の教室に属していたので、彼の調査の手伝いで2-3年間に数回韓国に出向いた。毎回2―3週間の滞在で、南の方の智異山(韓国で一番高く、大きな山塊)とソウルの近くの東国大学の雲霧山演習林で調査を行った。

この調査では、韓国の田舎に暮らし、多くの人々と触れ合うことが出来た。韓国語は全くできなかったが、留学生と言う良い通訳が居たので不便は全くなかった。韓国語は発音が難しく、私には聞き取り、話などで無理だとすぐに判断した。

韓国の田舎で感じたのは、大阪で直面していた在日韓国人の人々の激しさとは全く異なる、穏やかさと優しさであった。日本人が日本において如何に韓国の人々をいじめていたのかが痛感され、暗い気持ちになったのを覚えている。日本に連行されて、トンネル工事で働かされたという老人は、「あなたを責めるのではない。しかしあなたはそのことを知らなければならない」と言った。一緒にマッコリ(韓国の濁り酒)を飲みながら。

調査時当時に既に財閥の姿は、想像を超える状態であった。サムスン(三星)、現代自動車、ロッテ、現代重工業、韓進(大韓航空・開運)などが台頭し、ある会社はジェット機を数機所持しているということであった。国防費は、37%に達し、国民は貧しく、服装も質素であった。走っている車は、今の日本の軽自動車の様な、ポニーだけであった。

その後間もなく、中・高・大学の入試競争が激化し、大統領令で大学生の家庭教師が禁止される事態になった。このころから韓国社会は、ストレスの多い事態になり、人々が非常に攻撃的になったように感じる。現在は、日本以上にストレス社会の様に思われる。日本に対する攻撃的態度は、文政権の人気取りとともに、国民の感情の変化が感じられる。

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