見かけと競争の社会 

見かけと競争の社会   2018.11.07.

現在の日本社会は、見かけと競争で満ち溢れている。これにはマスコミの影響が大きい。
テレビの報道が始まったころに評論家の大宅壮一氏が、一億総白痴化だと言ったが、まさにそのようになってきている。

人生はそれぞれ自由であるが、自分の人生は自分自身で守らなければ、だれの責任でもない。インターネットもテレビも、見ている間はほとんど十分に考えることは行っていない。そのまま時間だけは過ぎ、人生の部分が失われてゆく。そのことにあまり気付かないまま、人生を消失する。人生の終わりが近くなると、そのことが重要な意味を持つことに気が付く。特に死を見つめるようになると、一層である。私は幸いに30年ほど前から、自分の人生を見つめる機会を得たので、それほど焦りはない。

テレビや新聞を見ていると、その見かけだけの内容に驚くことが多い。いろいろな広告も、ほとんど見かけを意識したものが多く、自分がいかに見えるかに終始している。テレビの人気者も、見かけだけで、ほとんど人生の内容を感じることは少ない。年を取ると老いるのであって、若く見える必要はない。多くの広告が、若く見えることを主体としている。例えば白髪染めで若く見えたからと言って、人生の内容が若くなるわけではない。髪を増やして若く見えても、その人生が充実するわけではない。若い人たちに授業をしていた時も、人から褒められてもけなされても、自分のやったことが変わるわけではないことを常に意識するように話していた。

人生の締めくくりは「死」である。この問題が、人生の集大成としての課題になる。そのことに気づくのが早ければ、少しは対応する方法が生まれる。しかし死の直前であると、対応の仕方が無くなる。この問題は、人からの評価では何の解決にもならない。自分自身でしか対応できない。このくらい明白な問題はないのだが、意外に多くの方が真の意味に付いて語らない。多分語る内容が無く、語れないのであろうと思われる。有名な作家の方で仏教者を自任しておられる方も、大変な人気を集めているのであるが、あまりにも貧弱な内容で参考にはならない。多分得度した時の指導者が十分ではなく(この方も立派な僧籍の方であったが)、本来の修業が出来なかったのであろう。良い指導者に合うことは、現在の日本ではかなり難しい。

この様な社会の状況を反映したか、現在の日本は競争に明け暮れている。スポーツばかりでなく、文学や芸術、果てはレストランまで、様々な賞等を設けてランク付けを行っている。これは上に述べた、自分の課題に向き合っていない真実の価値が理解できない人々によって、人の評価に頼ることに依存する結果の現象と思われる。もともと芸術や文学などは、個人の感性によるものであって、各自の受け方が基本のものである。このことは、民芸なる言葉を広げた柳宗悦の著書「南無阿弥陀仏」(岩波文庫)を読んでみると良く理解できる。

各個人の自立があって成り立つ部分を、競争などのランク付けで目を奪われるのは、自己の存在が危ういことを示している。この様な自立を損なっている現代の社会では、全てが人の評価に頼って判断していると思われる。親がこの様な状態であると、子どもも自己の確立が難しく、自殺などが起こりやすくなると思われる。このことを十分に理解していないと、人生を誤ることになる。友人の早稲田の教授は、アジアの国々と比べて日本の若者は踏み出す勇気がないことを嘆いていたが、このような現象を反映している。
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