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金森先生のカンボジア日記

金森正臣先生のカンボジアの文化・教育・食べ歩き体験記

朝から行水? 

2010年07月11日 | 文化
朝から行水?   2010.7.11.  金森正臣

 毎朝散歩するように努力している。大きな公園の有る通りを、メコン川まで行き、戻るとちょうど1時間ぐらい。5kmぐらいになるであろうか。公園の噴水は、普段は水を噴いていないが、何かの行事のある日は水しぶきを上げている。朝日のあたり始めた6時半ごろ通ったら、噴水の中に入って行水をしている男性がいた。いかにもカンボジアだ。周囲には散歩している人が沢山いるのだが、全く気にしている様子は無い。

夕陽の向こうに・・・

2010年07月08日 | 文化
夕陽の向こうに・・・    2010.7.8.  金森正臣

 「夕陽の向こうに 頭を垂れて 母よ あなたに ただ 詫びたい」 吉幾三の「敬愛」の一節である。プノンペンでは、日本のテレビは、NHKの衛星放送しか見られない。日本とは2時間時差があるから、8時ころの放映が、カンボジアでは6時ころに流れる。ある日少し早めに帰って、テレビをつけたら上の歌が流れていた。

 学生時代に北アルプスの白馬か薬師岳にいたときに、テントの中で夢を見た。小学校の2年生のころに住んでいた家には、表戸から裏口まで土間があり、表から入ると裏口が見えた。その裏口に真っ赤な太陽がほとんどいっぱいに沈んで行く中を、母が夕陽に向かって出てゆく姿を見ていた。何か永遠の別れを感じて起きた時には、涙を流していた。帰ったら親孝行をしようと思っていたが、結局それから30年、親孝行らしきことは何もしないまま母は他界した。「夕陽の向こうに 昭和が見える 貧しき昔の あの日が見える」。母は貧しさの中で、一生懸命に育ててくれた。

 吉幾三のこの歌詞が、私に50年ほど前の夢を思い出させ、今でも母に背中を押されて毎日があることを思い出させた。一休宗純禅師の歌に「おんなおば 法の御蔵と言うぞげに 釈迦も達磨も ひょいと生み出す」と言うのがある。この歌の意味は、すべては女性が中心で動いていると言ったほどの意味であろう。特に男性にとっては、母が生涯を決定づけているとも言える。

 これからも残された時間を、ぼつぼつと母に背中を押されながら歩いて行くことであろう。

地方見学2 ラタナキリは少数民族の場所

2010年06月18日 | 文化
地方見学2 ラタナキリは少数民族の場所

 写真は、カンボジアの北東の隅の州、ラタナキリでのもの。写っている生徒さんは、中等学校生11名。制服姿はすべて生徒さん。クルーン族、チカチュ族、トンポーン族、プラウ族、クマウ族の5部族から来ている。

 後列右端の方は、現地の先生。次は篠原カンボジア前全権大使(現CIESF副理事・カンボジアオフィース代表)、カンボジア人でこの学校を支援しておられるパリさん、私。左端のお二人は、大阪の方で、この学校の支援をしておられる川崎様ご夫婦。このお二人に我々が同行させて頂いた。パリさんは、カンボジアで少数民族の立場が弱いことを心配され、土地を取得し、寮を立ててクメール語と英語の教育と、普通の中・高等学校の支援をしている。少数部族は、基本的にはクメール語を使わないので、なかなか国の情報が伝わらない。

 ラタナキリも10年以上前から、開発が進み、観光が盛んになりつつある。それ以前からベトナムなどの資本が入り、カシューナッツの畑が、大規模に開発されている。この学校の周囲も、カシューナッツの畑ばかり。最近は、現金収入の多いゴムに切り替えられつつある。多くの少数部族の現地住民は、安い労働力として使われているようだ。

 勉強した若者たちは、将来は自分たちが、カンボジアの政府と対等に交渉できるようになることを夢見ている。

ラオス小旅行 1.   

2010年04月30日 | 文化
ラオス小旅行 1.   2010.4.30.    金森正臣

 突然友人からの誘いがあり、急遽ラオスに行ってきた。前回ラオスに行ったのは、2005-6年のクメール正月の時だったと思う。ラオスがどの様に変化しているかを見たかったのと、友人の調査にも関心があり、同行した次第。

 日程は、4月26日15:45プノンペン発、29日12:00プノンペンに戻り。27日にラオスの首都ビエンチャンから北に向かい、バンビエンと言う町まで、車で約3時間。そこで山菜の調査をする友人と一緒に野山を歩き、午後首都に戻った。バンビエンは、1975年ごろの内戦の折に、アメリカ軍が飛行場を作り、メオ族(苗族)を使って介入しようとした。しかしアメリカ軍は、負けて撤退し、協力したメオ族の多くが難民となり大きな問題を引き起こした場所である。28日は、日本の支援で作られた、ビエンチャン周辺の水田の灌漑施設を見学。メコンの支流から20メートルも揚水し、70kmの水路と排水路が作られている。夜は、友人の奥さんの誕生日のホームパーテェーに招待され、満月の下で満喫。

 写真は、到着した夜、メコン川の川岸の夜店の様子。この様な店が、ずらりと並び、観光客やラオスの恋人たちが楽しんでいた。働いているのは女性が多く、この店も元気の良いおばさんと娘さん。ちょっと太短く言葉は通じないが、ニコニコと愛想が良く親しみが持てる。写真の右端の魚は、メコン川のテラピアの塩焼き。メコン川流域であれば、ラオスでは何処に行ってもお目にかかれる。カンボジアにもいるが、この様な塩焼きは無く、鱗を落として切れ目を入れ、しょうゆ漬けにされて揚げられる事が多い。どちらも美味いが、国によって調理方法が異なるのが面白い。その左は、スペアーリブの塩焼き。更に左の竹に挟んで焼いてあるのは、ニワトリ。前列の一番左は、手作りのソーセージ。ラオスはソーセージが各所にあり、それぞれかなり味も違っているが、何処もおいしい。これに、ビアラオ(ラオスビール)で、ラオスの夜に乾杯。

 ビエンチャンは、カンボジアより100mぐらい高い。また少し北に位置している。それ以上に気温は低いようで、夜は過ごし易い。メコンの川風を受けながら、明日からのラオスに思いを馳せ、気分良く楽しい。

クメール正月

2010年04月15日 | 文化
クメール正月

 カンボジアは、仏教国で、正月は4月になる。今年の元旦は、4月14日の朝7時半。天から天女(デバータ:アンコールワット遺跡などの壁に彫られている)が降りてきて新年になる。

 カンボジアでも干支が有り、今年は寅年。写真は、公園のある大きな通りに上げられた、新年を祝う横断幕。両脇には、虎に乗った天女がいる。

 カンボジア人は、幾つも年齢があり、通常3つぐらいを使い分けている。出生届け制度がなく、後ほど必要な時に申請するから、申請によって決まる。早く学校に行きたければ(あまり例はないが)、年齢より多く申請する。働きはじめるときに、この年齢の上乗せが良くされる。学校に出るのが遅くなった時には、年齢を低く申請する。

 パスポートの申請の時に、また別の年齢を申請する。一度申請すると、改変は効かない。うちのカウンターパートを、日本の奨学金で送る時には、35歳の年齢制限があるので、3歳ほど若く申請してナントカ通ったことがある。彼らの年齢はいい加減であるが、生まれた年の干支は覚えているので、干支で聞くとすぐ年齢がばれる。


ハデ派手 カンボジア事情

2010年03月14日 | 文化
ハデ派手 カンボジア事情   2010.3.14.  金森正臣

 カンボジア人は、派手好きで日本人の感覚とはかなり違う。例えばお金持ちになるとすぐに高級車を買ったり、派手な豪邸を建てたりする。タケオの街のプノンペン側からの入り口の道路わきには、ある方の豪邸がある。また独立記念塔のわきにも、お城のような豪邸があり、ヘリポートまであって異彩を放っている。日本ではほとんど見かけることのないアメリカの軍用車、ハマーもかなり市内を走っている。現在のカンボジアで、ハマーで走る必要性はほとんどない。ちょっと規模は小さくなるが、ランクルやレクサスが多いのも、同じ現象であろう。金持ちを誇示し、威厳を示そうとする。日本だと成金趣味と、さげすまれるのが落ちである。

 目立ちたがり屋傾向は、女性の方が強いかもしれない。カンボジアの女性は、肌を露にして、性的魅力をアピールすることが多い。結婚式などに行くと、背中側はほとんど何もなく、ブラジャーをしていないのをアピールしている。どんな意図でしているのかは聞いてみたことはないが、既に売れてしまっている女性が、誰にアピールしているのだろうか(写真1、これは記念式典の折)。微妙な感覚で、肌をより多く示すことが、より魅力的と思っているようだ。まだ日本の大学に勤めていた頃に、入学してきた中に、性的アピールに熱心な女子学生がいた。学年が進むに従って、ますます派手になるので、「目立ちたかったら、裸だぞ!」とからかったら、学生曰く、それまですると異常者扱いされるからと遠慮していた。カンボジアでも同じらしく、裸にまでなってしまうと、やはり異常者扱いらしい。ある朝散歩していたら、一人の女性が歩きながら突然シャツなどを脱ぎ始めた。しばらくしたら、ブラジャーを外し、最後には、丸裸になってしまった。警察官も数人で遠巻きにしているだけで、誰も静止しようとはしなかった。多分、だれも被害を受けるわけでもなし、と言ったところなのだろう。日本では、男性歌手がヌードを演じて、逮捕され話題になっていた。日本でお巡りさんが見ていたら、当然のようにわいせつ物陳列罪ですぐ逮捕であろう。ここまで来ると一応異常者扱いであろうが、カンボジアのお巡りさんはなかなか大らかだ。

 日本の文化では、ハデハデ思考は、抑制されている。論語の中でも「巧言令色、仁無きなり」などがよく知られており、「能ある鷹は、爪を隠す」、「不言実行」の諺などでも、何につけても表に直接表すことを慎む傾向がある。能力や自分の力についてもかくの通りで、性的アピールなどになると、その傾向は一層強い。

 カンボジアのあるホテルを見ていたら、表側は4階建てのように見えるが、実際には3階までしかなく、びっくりしたことがある。多分日本ではこのような見せかけでは、かえって客の信用をなくすことになるであろう。日本では孔子の教え(儒教)の影響が強く、道徳としての社会規範がしかりしている。禅の実践者である鈴木大拙博士は、道徳は道徳でしかなく、越えれば其れは既に道徳では無くなる。道徳は人を縛るが、仏教は人を自由にすると言っている。仏教の最終段階は、無碍自在と言う。また、「仏教は無我にて候」と言われ、自己を滅却したところにあるとされる。そこには自己アピールなどは、存在しない。儒教にしても仏教にしても、日本の文化では、自己主張はほどほどに抑制されている。カンボジアの上座部仏教は、自由なのだろう。このような文化の相違は、乗り越えるのがなかなか難しい。

 この文章は、日本人会の会報のために書いたものです。
最近、年をとって体力がなくなったのと、仕事が忙しくなったので、なかなかブログを書いている余裕がなくなり、更新できませんがお許しください。まだしばらくカンボジアで、支援を続ける予定ですので、時々更新いたします。

野点の道具 

2010年02月24日 | 文化
野点の道具   2010.2.24.        金森正臣

 卒業生の会の折に、ある方から野点道具一式を頂いた。抹茶が好きで良く飲んでいたから、覚えていてくださった方からの贈り物。有難い。カンボジアでも時々飲んでいたけれど、最近は忙しくて抹茶にはならなかった。これから楽しみにして余裕を持とう。

 私が抹茶を好きになって、自分かたら立てるようになったのは、愛知教育大学に勤める様になった30年ぐらい前からである。それ以前は自分で立てることはなかった。しかし抹茶を頂く機会は少しあって、なかなかお会いし難い立派なお師匠さんから頂く機会が何回かあった。最初に頂いたのは、まだ中学生ぐらいで、長野県の山村に住んでいた頃である。華族出身のその方は、優雅な振る舞いで、立てて下さった。この方からは、大学卒業後もしばしば頂いた。勤めていた大学の実験所に遊びに来て下さって、ハルリンドウの咲く脇や、ハツタケ(キノコ)の生えている野原で頂いた覚えがある。京都の清水寺の大西丈慶師からご馳走になったこともあった。当時100歳を超えておられ、世界宗教会議の推進者として、熱く語られていた。ある時は冬の炬燵で生クリームのショートケーキを茶菓子として、ある時は裏の本堂の縁側で、谷に向こうの借景の灯篭を見ながら、京都らしい干菓子で。私は、お茶を習ったことはなく、作法が分からないと云うと、どの方も「楽しく飲めば良いと」いたわって下さった。

 野点が好きになったのは、京都大学理学部の森下正明先生が、調査時に野外で立てて下さったのが縁で、自分でも見様見まねでするようになった。実験室でも飲むようになった頃、茶碗がなくて、ビーカーを筒茶碗に見立てて立ててみたが、お湯がくるくる回るばかりで、抹茶が混じらず失敗であった。その時に茶碗の底にある茶だまりに意味があることが理解できた。日本やアフリカの調査でも、抹茶と茶筅だけ持ち歩き、時間のある時に気分転換に飲んでいた。我が家で抹茶を立てようとすると、奥さんは前に座り込み「私も飲む」と宣。奥さんは嫁入り前に、お茶を習っていた時期があったと聞いているが、自分で立てることは無く、私が始めると前に座り込む。

 私は茶道具を買ったことがほとんどなく、茶碗などはみな頂き物である。陶芸家の友達から頂くことが多く、結構な茶碗が多いから、その辺の店で買う気にならない。韓国の友人から頂いた白磁ものは、大井戸茶碗の様なゆったりとしたつくりで気に入っている。海外に出るときは、割れるともったいないので、旅先で代用になりそうなものを調達する。カンボジアの家で使っている茶碗は、1個1-2ドル程度のベトナムの焼き物である。ある時古いベトナムの茶碗を見つけて(日本でもベトナムの古い茶碗が国宝になっているものがある)、高かったので値切った。家に帰ってお茶を立て見ると、値切りすぎたのか僅かに水が漏れた。現在は使いこまれて、漏れなくなっている。

御礼

2010年01月30日 | 文化
第7回「正臣」会 有難うございました  2010.1.30. 金森正臣

皆様
 第7回「正臣」会、有難うございました。私が愛教大に赴任したのは、38歳の時のことですが、昨日のように思い出されます。あれから32年が経ち、退官してからでも7年が経ちました。お会いしたり、頂き物などからさまざまなことが思い出され、年齢を重ねることはいろいろ楽しみが増えることだと感謝しました。

 赴任した当時の卒業生は、もう50歳代に入り、一番若い方々でも30歳近くなられるのです。私自身も、年をとるわけです。私が赴任当時、皆さんの指導に戸惑っていたのをご存知ですか。それまでは卒論を見ても、修論を見ても責任は担当教官にありますから、気楽なものでした。その上、皆さんは先生になる方が多かったので、どこに重点を置くかで数年は迷っていました。最初の菅平時代に、東京学芸大学にいた先輩が、毎年実習に来られ、学生さんと卒論と教育実習の重要さの重さについて議論していたのを思い出したりしていました。やはり先生は、研究だけではないように感じていました。その後子ども達の理解が重要であると思った時期があります。しかし現在は、子ども達の理解は、自分自身を理解することによって、より深くなると思っています。

 現在私は、カンボジアで教育の仕事をしています。重要な要素として、文化の相違が立ちはだかります。相手の文化の理解は、自分の文化の理解があってこそ成り立つものだと思っています。なぜならば、自分の文化と言う物差しが有ってこそ、相手の文化を測ることができます。自分の文化の理解なしには、単に珍しいこと、違うことになってしまいます。子ども達の理解も、自分の理解と言う物差しが有ってこそ、測れる部分が大きいと思っています。

 私はもう長くなくなりましたが、お互いに最後まで頑張りましょう。


 カンボジアに一昨日戻りました。日本は寒かったので、カンボジアももしやと思いましたが、やはり暑い国です。

明けましておめでとうございます   

2010年01月07日 | 文化
明けましておめでとうございます   2010.01.07. 金森正臣

 皆様
 新年明けましておめでとうございます。もう松の内もあけますが、皆様よい年をお迎えでしょうか。
 昨年は後半が、非常に忙しい年になりました。今年3月には、もう70歳になりますので、体力を考えながら、ゆっくりと行きたいと思っています。でも仕事ができることは有難いことです。

 カンボジアは、西暦の新年はほとんど祝わず、クメール正月(仏教歴なので西洋歴の4月に当たる)を盛大に祝います。盛大過ぎて、本来3日間の休みが、前後に勝手休暇が付いて1週間から10日ぐらいになります。そんなわけで、近所で早々に結婚式がありました。例によって道路を封鎖して会場に、そして盛大な音楽です。日本では、年末年始には結婚式はしないと思うけれど。

カンボジア名物、点滴バイク  

2009年12月18日 | 文化
カンボジア名物、点滴バイク  2009.12.18. 金森正臣

 カンボジアでは、いろいろと驚かせられることがあるが、これもその風景の一つ。交差点でバスの中から撮ったから、あまり鮮明ではないが。写真中央の女性が、青い袋を右手で高く支えているのは、点滴用のリンゲル液の入った袋。点滴されているのは、バイクタクシーのドライバーと袋を支えている女性の間に乗っている女性。バイクの3人乗りも日本では見られないが(もちろんお巡りさんにすぐに捕まる)、バイクの上で点滴しているのも見られない。点滴は、普通病院のベットの上でする。この交差点は、プノンペンでも最も混雑する交差点。銀座の4丁目と言ったところ。最も交通量の多いモニボン通りとシアヌーク通りの交差点。日本のバイクメーカーのスズキが、数年前にショウルームを開いたのが写真の後方に写っている。

 点滴は、通常病院で行っていても、点滴スピードの変化などで、体調が変化し、あまり早かったりすると、吐き気が起こったり、血圧が変動したりする。通常は安静にしていて、状態を見ながらするものであって、走り回りながらするものではないように思われるが、カンボジア人は大胆だ。医者もあまり患者のことを考えていないような気がする。