鹿児島市の「みなと大通り公園」東側の一角に太平洋戦争民間犠牲者慰霊碑「人間之碑」と題したモニュメントがある。空襲による犠牲者鎮魂のため、戦後30年の節目を控えた74年6月17目に建てられたものだ。
当初、軍需工場を標的とした米軍機の空襲は、やがて市街地の無差別爆撃に移行。国内主要都市のほとんどが焦土と化した。鹿児島市への空襲は、市によると45年3~8月に計8回。その最大のものが同年6月17~18日の鹿児島大空襲である。
死者は県内の空襲犠牲者の6割超にあたる2316人。り災者数6万6000人余は、当時の人□約19万人(40年国勢調査)のほぼ3分の1.広島、長崎の原爆を除けば地方都市の空襲としては最大級の被害である。
64年目のその日、生活協同組合コープかごしまが主催した「平和のつどい」に参加した。当時、旧制二中(現・甲南高)3年だった下池和善さん(79)の体験談を聞いたが空襲警報、防空ずきんなどの言葉を丁寧に解説する話しぶりに、64年という歳月の長さを痛感せずにはおれなかった。戦前・戦中生まれがおよそ4人にI人。戦争体験を語れる人はさらに少ないとなれば無理もない。
「平和のつどい」の前身は「6・17」を風化させまいと84年に始まり、23年目を迎えた。一方、市教委によると中学校の修学旅行の多くが長崎や広島、沖縄などを訪問地に選び、平和教育を一つの柱にしているという。戦争のむごさを実感として知らない世代ゆえ、折に触れて先人の教訓を学び、受け継いでいくのは当然の責務だと思う。
前述の「人間之碑」で一言。植え込みをまたいで背後に回ると、碑の由来が記してあるものの、当地の戦災についての説明文が周囲に見当たらないのは気になる。ちなみに正面にはめこまれた碑文の一節には、こうあった。「あすのために この碑を建つ」と。
鹿児島支局長 平山千里
当初、軍需工場を標的とした米軍機の空襲は、やがて市街地の無差別爆撃に移行。国内主要都市のほとんどが焦土と化した。鹿児島市への空襲は、市によると45年3~8月に計8回。その最大のものが同年6月17~18日の鹿児島大空襲である。
死者は県内の空襲犠牲者の6割超にあたる2316人。り災者数6万6000人余は、当時の人□約19万人(40年国勢調査)のほぼ3分の1.広島、長崎の原爆を除けば地方都市の空襲としては最大級の被害である。
64年目のその日、生活協同組合コープかごしまが主催した「平和のつどい」に参加した。当時、旧制二中(現・甲南高)3年だった下池和善さん(79)の体験談を聞いたが空襲警報、防空ずきんなどの言葉を丁寧に解説する話しぶりに、64年という歳月の長さを痛感せずにはおれなかった。戦前・戦中生まれがおよそ4人にI人。戦争体験を語れる人はさらに少ないとなれば無理もない。
「平和のつどい」の前身は「6・17」を風化させまいと84年に始まり、23年目を迎えた。一方、市教委によると中学校の修学旅行の多くが長崎や広島、沖縄などを訪問地に選び、平和教育を一つの柱にしているという。戦争のむごさを実感として知らない世代ゆえ、折に触れて先人の教訓を学び、受け継いでいくのは当然の責務だと思う。
前述の「人間之碑」で一言。植え込みをまたいで背後に回ると、碑の由来が記してあるものの、当地の戦災についての説明文が周囲に見当たらないのは気になる。ちなみに正面にはめこまれた碑文の一節には、こうあった。「あすのために この碑を建つ」と。
鹿児島支局長 平山千里