EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

秋山好古揮毫石碑写真展が新聞記事になった

2016年02月20日 | 伊予松山歴史散策


現在ブログで秋山好古揮毫石碑紀行と題して47基目を掲載しご覧頂いております。
石碑の調査を初めて11年その間52基の好古が揮毫した石碑が全国に発見され51基は既に取材を終え皆さんにブログを通じて紹介させて頂いており多くの方々に見て頂き、コメントも頂いております。
此の度、私の地元紙、愛媛新聞が取り上げて頂き2月17日付けで記事になりましたのでご紹介させて頂きます。


愛媛新聞の記事に取り上げられた切っ掛けとなった好古揮毫の原稿「御大典記念」52基発見されている中で初めて発見された。
原稿は、愛媛県久万高原町の三社神社の小野宮司さんが保管保存されており、宮司さんの許可を得て複製し秋山兄弟生誕地に展示51基の石碑も写真展示している。52基目は長野県安曇野市にあり5月31日取材に行く予定。・・これが最後の石碑だと思う。




秋山兄弟生誕地の全景、藩政時代伊予松山藩主から頂いた土地で当時そのままである。
左の建物は、昭和期に松山同郷会が入手した土地で、建物は愛媛県から寄贈されたもの、現在は常盤同郷会武道場として合気道と柔道が行われている。
好古揮毫の石碑写真は、武道場の縁側に写真展として展示している。


秋山好古生誕150年を記念して「秋山好古揮毫の石碑写真集」として平成21年1月7日、好古の誕生日の日に発行した。


秋山好古揮毫の石碑写真集の一部、東京世田谷の石碑。


平成23年12月1日、「秋山好古揮毫の石碑写真集」第2版として発行した。


千葉県習志野市の石碑・
「秋山好古揮毫の石碑写真集」第1版発行時には未だ発見してなかった、千葉県習志野市好古顕彰碑、新潟市の新潟市市民文化遺産に認定された「忠魂碑」その他の石碑を追加して発行した。
第2版(改訂版)発行以降、愛媛県上浮穴郡久万高原町の「御大典記念」原稿が発見された石碑・神奈川県平塚市の、「義烈」、愛媛県大洲市長浜町の「三嶋神社」、長野県安曇野市の石碑は掲載されていない。


秋山好古は、大正14年4月、伊予松山から熱い要請を受けて北豫中学校(現、愛媛県立松山北高等学校)の校長として就任した。
好古は、大正13年元帥に推薦されるも此れを辞退、驚いた大元帥(大正天皇)は、特旨として官位従二位を与えた。そして奥さんと子供を東京に残して、単身で松山の秋山邸に帰り、昭和5年3月まで一日の休暇も取らず、遅刻もなく北豫中学校に通った。
好古の人生は、福沢諭吉の学問のすすめを読み、教師を志、大坂師範学校、(現、大阪教育大学)に進み卒業後、名古屋師範学校付属小学校の教師を、しかし先輩の和久正辰教頭の強い勧めで明治10年陸軍士官学校に進み、大正14年再び教壇に立った。・・母「貞」は、好古に(眞之にも)大きくなったら「世の為、人の為、故郷の為に尽くせる人になるようにとしっかりと躾育てた」その通り生き抜いた半分は軍人で半分は素晴らしき教育者である。
画像は、北豫中学校時代、文武両道の教育を推進しその結果陸上競技四国大会で優勝した時の写真である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする