1.碑 文 : 忠魂碑
2.所 在 地: 宇和島市吉田町河内甲371番地 安楽寺
3.揮 毫 者: 陸軍大将 秋山好古
4.建 立 者: 記載無し
5.建立年月日: 大正13年11月
6.碑石大きさ: 高さ 1m56㎝ 横幅 82㎝ 厚さ 21㎝
7.石碑の由来: 大正13年に建立した当時の場所は、小学校の校前にあった。
終戦後の昭和20年10月、連合国軍最高司令長官ダグラス・マッカーサー元帥の指示で軍人が揮毫した石碑、扁額等々が教育施設にあるものの撤去命令が発令された。
この石碑も対象であった。
喜佐方小学校前にあったためである。
安楽寺の奥山住職は、危険もかえりみず「私が罪を被るから、我が寺に引き取り保存する」と断言されそれ以来、安楽寺がこの石碑を守ってきた。
安楽寺は、吉田町出身で山下汽船(現・商船三井)の創業者・山下亀三郎の本家とは、親戚同様の交際があるようだ。
山下亀三郎は、秋山眞之が「日本は中国との貿易を活発にしなければならない」と話すのを聞いて汽船会社を創業し、大成功した。
眞之は、小田原にいた山形有朋を訪ねるために、亀三郎の小田原の別荘に滞在していたが、そこで持病の盲腸炎が悪化して腹膜炎を併発し、大正7年2月4日、亀三郎らに見守られながら49歳で死去した。
その時に読んだ句が「不生不滅明けて鴉の三羽かな」三羽とは、正岡子規と清水則遠、と秋山眞之の事で、この三人は、松山中学時代の同級生、末は博士か大臣かと大きな志を抱き東京大学を目指し上京した友人を指している。三人とも若くして逝去した。
眞之は鎌倉霊園に眠っている。
安楽寺の住職の奥様曰く・・
「好古にこの忠魂碑の揮毫依頼をしたのは、亀三郎さんですか」と、安楽寺奥山住職の奥様に聞くと「そうでしょうね」と答え、さらに「現代の人々はこの時代のことなど関心がなくなりました。
NHKで坂の上の雲が放映されるので、時代を振り返り、良いものはどしどし取り入れて立派な国づくりの一助になればいいですね」と述べられた。
庄屋、山下家と縁のある安楽寺。
宇和島市吉田町河内甲371番地、臨済宗妙心寺派の寺で、宇和島市の初詣で人気のお寺である。
安楽寺の本堂。
山下亀三郎が安楽寺に寄進した石柱。
横浜市 山下亀三郎と記載されている。
喜佐方小学校前に在る忠霊塔で、日清・日露・大東亜戦争にこの地から出征し戦死された方々の合同慰霊碑で、ある人が安楽寺の住職に、忠霊塔が建立されたので、安楽寺の「忠魂碑」はもういらないのではないかと言ったら、住職は、何を言いうのだ、忠霊塔とこの忠魂碑は意味が違うのだと言って激怒されたと住職の奥さんは言っておられた。
戦後建立された忠霊塔で、喜佐方地区から日清・日露・大東亜戦争にこの地から出征し戦死された方々のお名前が記載されている。
山下亀三郎の実家近くの神社で注連石は亀三郎の寄進。
山下亀三郎の実家近くの神社で、山下亀三郎は注連石を寄進している。
注連石の裏面には、横浜港 喜佐方丸船主 山下亀三郎と刻印されている。
石原慎太郎・裕次郎縁の山下家。
山下亀三郎の実家で画像全部がその屋敷、この地区の庄屋・山下家の7人兄弟の末子として慶応3年4月9日に生まれた。日本の三大船成金の一人で、勝田銀次郎、内田信也、山下亀三郎を言う。山下汽船は現在商船三井となっている。
秋山眞之とも親しい間柄であったので日露戦争が間近にせまっており民間船も徴用される事を察知、山下は喜佐方丸を購入これが山下汽船の大きな発展の原点となった。
石原慎太郎・裕次郎の父親は、愛媛県大洲市の出身で、山下汽船に就職した。石原一家が逗子で最初に住んだ家は山下汽船創業者山下亀三郎の別邸であった。
秋山眞之が逝去したのは小田原市である。山下亀三郎の小田原の別邸で腹膜炎で亡くなった。当時小田原には腹膜炎を治す医者が居なかったそうだ。
何故眞之は小田原に居たのか、それは山県有朋にこれから日本の国造りは山県さんが中心になって行われます。その中で米国とだけは事を構えない日本を創って下さい。物量豊かな米国と事を構えると(戦争)日本は滅びます。・・この事をお願いに・・山県有朋は小田原の別宅に居たからである。
宇和島市立簡野道明記念吉田図書館で、建物は寺院風である。初代の奥山昭典館長さんが、命がけで守った「忠魂碑」の保存者、安楽寺の住職さん、奥山住職が館長だから寺院風に造ったのかと視察に来た人達から言われたそうだが、図書館建設委員から京都二条城を模して建築したそうだ。
旧吉田藩主のお殿様の御殿があった場所(御殿内)の由来から昭和61年、約3億円の工事費をかけて、京都の二条城を真似た御殿風の建物を建立した。館長が安楽寺の住職だからではない。
簡野道明(かんのどうめい・本名:かんのみちあき)は、慶応元年~昭和13年、吉田町出身の漢学者であり、漢和辞典「字源」の著者である。