EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

我が家から見た9・10月の雲

2013年10月11日 | 伊予松山歴史散策
9月もおわり10月になった。今年の夏は異常気象、連続の真夏日で体力維持が大変、人間社会も異変を来たしたのか?いやな事件も多く起こった。9月下旬に少し涼しくなったと思ったら、台風の連続発生で、夏の気温に逆戻り、10月になっても気温は下がらない。今年の秋は短く、冬が長いかも??
我が家の玄関から天候のよい日は西日本最高峰の「石鎚山・1982m」を拝むことが出来る。
画像は、我が家から撮った雲である。
雲(くも)は、大気中にかたまって浮かぶ水滴または氷の粒(氷晶)のことだが私は雲についてはまったく知識がないので説明が書けない。
見ていただく皆さんが判別して下さい。・・カメラは何時も玄関に置いており何時でも撮れるようにしている。


10月9日の画像、西日本最高峰「石鎚山・1982m」に大きな傘雲が現れた。


これも9日の画像で、雲の流れは速く、数分で石鎚山にかかる雲の形が変形する。


UFOの様な変わった雲が出来たので・・右下の山が石鎚山。




9日の画像で北の空に変わった形の雲が現れた。


秋が近づいた雰囲気の雲。




真夏の様な雲が現れた。


10月4日の夕焼け雲・・時々西の空が真っ赤に変化する。
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俳句の街松山の句碑巡り 8 篠原 梵

2013年10月10日 | 伊予松山歴史散策

篠原 梵
明治43年4月15日、愛媛県伊予郡南伊予村(現伊予市)に、警察官である父篠原特五郎、母ちさとの長男として生まれる。昭和50年10月17日、65歳で逝去。大正6年、南宇和郡御荘町平城尋常小学校に入学、大正9年松山市立第四尋常小学校(現東雲小学校)に転入学した。父が警察官をやめ、商売(米穀・塩販売)をしたい気持ちが固まり、以後、松山に居着く事になる。松山中学・松山高等学校を経て、昭和9年3月31日東京帝国大学文学部卒業、昭和13年、中央公論社に入社、のち中央公論の編集長、理事、取締役を経て、中央公論事業出版の社長となる。昭和50年10月、家族とともに郷里松山に帰省中肝硬変発病、僅か一週間の入院生活で松山の病院で死去した。雪枝夫人(劇作家・村田修子)も追悼遺稿集「葉桜」の編集を終えたあと、昭和51年9月5日、石手寺の梵の句碑建立も見ずに死去した。
梵の作品は、鋭い感覚、斬新な知性、しなやかなリズムなどで当時の俳壇を驚かせた。「梵」という俳号は、松山で子供のことを「ボンや」と呼んだことに因むという。梵は、同郷の友人にも恵まれ、特に大喜多秀(愛媛大学、松山大学教授・哲学)とは小学校以来の学友であり、また俳句の八木絵馬(明治大学教授・英語)とは中学以来の学友であった。句集(年々去来の花)別冊(経路・昭和49年)などがある。墓地は、松山市祝谷 常信寺。


句は、「葉桜の中の無数の空さわぐ」
葉桜の動きを空間に置き換えた新鮮な感覚は世人に愛され、葉桜の句として他を圧倒します。石手寺境内にあり俳人も大勢いる。
梵の句碑は、この一基のみである。
所在は、松山市石手二丁目・石手寺境内の愛媛ビルマパゴダの前にある。


市内、唯一つの句碑、「葉桜の中の無数の空さわぐ」の裏面。
昭和51年10月17日、一週忌建立と、刻印されている。


四国霊場第51番、石手寺正面で国道317号沿いにある。88ヶ所札所の中でも参拝者が最も多い札所の一つである。では、ここから篠原梵の句碑まで案内しよう。


正面から長い参廊を歩く。


参廊の奥に国宝「石手寺二王門」がある。昭和27年11月22日、指定。
この門は、文保2年(1318)に建立した。松山市内の建造物では一番古い建物である。全国の楼門の中でも屈指の優れた建物と評価されている。中でも正・背面にある蟇股(かえるまた)、側面の間斗束(けんとづか)が凄い。


二王門を潜ると右手に三重塔が見える(国指定重文、昭和40年5月27指定)。


正面奥に石手寺本堂があり右側に弘法大師堂がある。石手寺は、真言宗豊山派の古刹。本堂は昭和40年5月27日、重文に指定。


篠原梵の句碑は、本堂手前左に愛媛ビルマパゴダがありその前に句碑はある。


二王門前で、女性の歩きお遍路さんが食事を取っておいでた。長歩きご苦労様。

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俳句の街松山の句碑巡り 7 中村草田男

2013年10月09日 | 伊予松山歴史散策


中村草田男
「降る雪や明治は遠くなりにけり」は、名句。
明治34年7月24日、清国福建省廈門にて清国領事・修の長男として生まれる。本名清一郎。4歳の時父の故郷・松山に帰る。松山中学から松山高等学校そして東京大学に進学。この間神経衰弱で一時休学。29歳の時虚子に就き、東大俳句会に入会、33歳で子規を卒論に書き卒業後、成蹊学園に就職。そして水原秋桜子の指導をうけつつ「ホトトギス」に投句、「降る雪や明治は遠くなりにけり」などの名句の載る第1句集「長子」が出版されたのは、昭和14年のことであった。昭和44年、定年退職し成蹊大学名誉教授となる。草田男の俳句は、人生と深く関わろうとする苦闘のあとを示し、「人間探求派」と呼ばれた。石田波郷・加藤楸邨もこの派の俳人で、この三人のうち二人までが愛媛の俳人であった。松山中学の同期だった二神伝三郎(元愛媛県立松山北高等学校校長)は、「草田男は、平素は無愛想に見えたが、しゃべりはじめるととめどもなくなる。友人は少なかったようだが、人をひきつける大きな力があり、自然とつきあいも深くなった。」と語っている。松山での住居は、二番町二丁目7の日の丸駐車場の辺りであった。草田男の主宰する月刊誌「萬緑」の誌名は、彼の句集「火の鳥」昭和14年の中の句「萬緑の中や吾子の歯生え初むる」に因んだもので、この句以来、「萬(万)緑」は新しい季語として定着した。
降る雪や明治は遠くなりにけり・・この句は昭和6年、大学生だった草田男が大雪の日にかつて学んだ母校の赤坂区青南小学校(のちの港区立青南小学校)を訪問した際に生まれた。降りしきる雪の中に居ると、時と場所の意識が空白となり、現在がそのまま明治時代であるかのような錯覚と、明治時代が永久に消えてしまったとの思いが同時に強まったという。現在、句碑として当小学校内に建っている。・・よある。


句は、「夕桜城の石崖裾濃なる」。
所在は、松山市東雲町、東雲公園内にある。
市内、唯一つの句碑で、昭和11年、第1句集「長子」の中の句、昭和9年帰郷時の作。「裾濃」とは衣服や鎧の縅(おどし)の色合いで、上が淡く、下方になるほど濃いもののこと。この自筆句碑は、草田男主宰の俳誌「萬緑」の会員らが力を合わせてこの素晴らしい環境に建立し、昭和58年8月6日除幕式予定のところ、前日の8月5日急逝のため取りやめとなり、改めて、翌59年8月25日、家族・「萬緑」の会員らが出席して、お孫さんの手で除幕した。草田男は、自分の句碑建立にはなかなか消極的であった。草田男の句碑は非常に少なく、松山市内にはこの句碑のみで、もう一つは、松山市中島(旧温泉郡中島町大浦)にある愛媛県立松山北高等学校中島分校正門入り口右にある。・・私は未だ伺ったことがないので是非一度行って句碑を見てみたい。中島には船で松山高浜港から海上約1時間40分掛かる。
その句碑は、「一度訪ひ二度訪ふ波やきりぎりす」と言う自筆の句碑である。


市内、唯一つの句碑、「夕桜城の石崖裾濃なる」の裏面。


「夕桜城の石崖裾濃なる」の句碑がある、松山市東雲公園で、奥の山の頂には、伊予松山15万石の天守が見える場所で、それで「素晴らしい環境に建立し」とあるのかも??。


東雲公園は、慶長15年(1610)頃から徳川・豊臣両氏の間がとやかく風説があったので、加藤嘉明はこの情勢を察し、東ノ郭補強として外堀構築を計画し、町人府中屋念斎に命じてその工事に当らせた。工事は慶長18年(1613)頃から始まった。場所は、今の東雲町の北側にある堀跡(現在東雲公園)はその一部で、念斎が構築したものだから世に「念斎堀」と呼ばれ、別名「薬研堀」・「土器堀」とも呼ばれていた。工事は、元和元年(1615)大坂夏の陣により豊臣氏が滅亡したのを機に工事は中止された。この堀は昭和30年に埋め立てられ東雲公園と市立東雲保育園となっている。以上のような由緒ある場所に句碑がある。


初代伊予松山藩主、加藤嘉明が外堀構想を最初に手がけた念斎堀で、別名「薬研堀」・「土器堀」とも呼ばれていた。その説明板を東雲公園に松山市教育委員会が設置している。右下の句碑の印が草田男の句碑所在地。
念斎堀「別名「薬研堀」・「土器堀」とも呼ばれていた。
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松山秋祭り最終日 本宮 道後地区神輿鉢合わせ

2013年10月08日 | 伊予松山歴史散策
松山地方の秋祭り、6日宵宮、7日本祭り最終日を迎え、未明から旧市内各神社で神輿の宮出しがあり、激しい鉢合わせが繰り広げられた。鉢合わせのあとは氏子が待つ地元に帰り巡行が行われた。一昔前までは、五穀豊穣、商売繁盛、家内安全を祈って、農村地帯においては、秋の収穫を感謝する祭りであったが、現在は、特に旧市内では観光的要素が強くなった感がする。
松山の秋祭りは、特に道後町1丁目の伊予鉄道、道後温泉駅前で行われる勇壮な鉢合わせが今や全国から観戦に来られるくらい名物となった。
早朝道後湯神社から2体、伊佐庭神社から6体の神輿に宮司が神霊を入れ午前5時30分から、宮出し、8体の神輿が「ヨイサ!ヨイサ!モテコイ!モテコイ」の掛け声とともに登場。BGMに「三橋美智也の神輿音頭」の曲が流れ祭りを盛り上げ、豪快にぶつけ合う神輿の鉢合わせを見ようと、道後温泉駅前には約3500人の観衆が詰め掛け鉢合わせを観戦した。

画像は、7日本祭りの準備をする神輿と、道後温泉駅前で行われた八町・八体の神輿の鉢合わせ。
註:三橋美智也の神輿音頭の歌詞は下記の通り

神輿百貫ヨー ワッショイ ワッショイ ワッショイ ワッショイ 神輿百貫 ロープが百貫 〆て掛かった この肩に ソレ ワッショイ ワッショイ ワッショイ ワッショイ 背負って立ったぞ この肩に それもめ やれもめ ※ワッショイ ワッショイ ワッショイ ワッショイ 神輿音頭で ソレ ソレ ソレ ワッショイ ワッショイ ワッショイ ワッショイ ナー

粋なあの娘のヨー ワッショイ ワッショイ ワッショイ ワッショイ 粋なあの娘の 湯上がり姿 こっち向きゃんせ 見やしゃんせ ソレ ワッショイ ワッショイ ワッショイ ワッショイ 伊達のハッピを 見やしゃんせ それもめ やれもめ
※繰り返し

祭りは松山 荒神輿 持って来ーい 持って来ーい 四十五度で 持って来ーい がんと打つかりゃ 火が出るぞ その火で一ぷく やってくれ ワッショイ ワッショイ ワッショイ ワッショイ 神輿ゃ四角にヨー ワッショイ ワッショイ ワッショイ ワッショイ 神輿ゃ四角に 八角ながら かつぐ氏子は 丸い仲 ソレ ワッショイ ワッショイ ワッショイ ワッショイ みんな笑顔の 丸い仲 それもめ やれもめ
※繰り返し

今年も松山秋祭りが始まりますと、松山三越に掲示された案内状。


松山秋祭りと小唐人大神輿の由来を紹介。


10月7日の鉢合わせのため神輿本体を保護するロープ巻きをする小唐人大神輿。


二日間掛けてロープ巻きを仕上げ松山三越大街道入口に展示。


ロープ巻きを仕上げた神輿の内部、これで鉢合わせの衝撃を防御出来る。


この神輿は、道後の地元、道後湯之町の神輿、ロープ巻き仕上げ完了。


ロープ巻きを仕上げ完了後、道後温泉駅前で観光客にお披露目。


道後駅前で行われた鉢合わせ。
松山神輿は、神輿の上に頭取という神輿を取り仕切る人が上るが、江戸神輿研究会の神輿には人は上らない。
註:頭取が神輿に上るのは鉢合わせをする時、指令を出すために上るが、鉢合わせ以外のときは上らない。
浅草神輿のように神様が鎮座している神輿に人間が乗るとか上るとかは禁止行為・・松山神輿は鉢合わせの時のだけ人が乗る・・神様のお許しを得ての事。


今年は怪我人が11名救急搬送された・・少々の担手同志の喧嘩もあった。


鉢合わせの瞬間、両方の神輿は勢いを付けて駆けてくるから当たった瞬間は凄い衝撃がある。・・神輿に乗っている頭取も吹っ飛ぶ勢い。
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伊予松山・星岡町の秋祭り 本宮

2013年10月08日 | 伊予松山歴史散策
10月5日からはじまった松山秋祭りは、7日が本宮、各神社では神霊を神輿に入れ宮出し、鉢合わせ、早朝から「三橋美智也の神輿音頭」が流れ祭り一色。
旧城下町では大人神輿が出て大賑やかだが、周辺部の町は子供神輿と獅子舞で祭りを盛り上げていた。
松山には、本来の松山神輿の他、最近は江戸神輿研究会、女神輿振興会等々が繰り出す神輿が出てきた。松山神輿は、神輿の上に頭取という神輿を取り仕切る人が上るが、江戸神輿研究会の神輿には人は上らない。

註:頭取が神輿に上るのは鉢合わせをする時、指令を出すために上るが、鉢合わせ以外のときは上らない。
浅草神輿のように神様が鎮座している神輿に人間が乗るとか上るとかは禁止行為・・松山神輿は鉢合わせの時のだけ人が乗る・・神様のお許しを得ての事。

画像は、我が家の隣町「星岡町」の祭り風景。


我が家の前に老人介護福祉センターがある、その施設に子供神輿2体と獅子舞がやって来て披露した。


最近は、各町の神輿は男子よりも女子の舁手が多くなった。


獅子舞は、小・中学生の少年達、獅子を操る太鼓をたたくのは女の子供達、この町の子供会は熱心な町である。
施設のお年寄り達も楽しい一時を過ごせ喜んでいた。以前は、青年団という組織があり獅子舞等は青年団が行っていたが
現在は、小・中学生が獅子舞(郷土芸能)が継承している。獅子舞を指導するのが、元青年団であった年長者である。


素晴らしい迫力のある獅子舞を披露、中で操るのは中学生。


獅子舞の幕間を利用して、「ひょっとこ」と「おかめ」が出てきて一芝居。演じるのは、元青年団。音頭をとる太鼓を敲くのは女子小学生。


次は、小猿と、小狐が出てきて獅子をいらつかせる。


施設のお年寄りたち楽しそうに見てました。中には若かりし頃、獅子舞を経験した人も居たのでは??。秋の思い出となる一時を過ごした事でしょう。


獅子舞の使い手はこんな少年少女達、獅子舞保存会の大人たちの良き指導があって継続される事だ・・この町にはいじめなど発生しないだろうな!!


獅子舞の使い手の少年少女達、観覧者に対して一礼して獅子舞は終わった。
獅子舞保存会の指導者は礼節も忘れることなく指導している・・素晴らしいことだ。



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