EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

第23回「アマチュア無線全国縦断一斉マイクロ波帯大移動運用会」

2013年10月07日 | 伊予松山歴史散策


平成23年10月5日・6日2日間標記の行事に参加しました。
同日は、日本列島、北海道から九州各地に至ってマイクロ波帯の電波を使用し電波伝搬通信実験が行われた。平成14年9月28日に第1回目を開催して継続中で、今回が第23回目である。マイクロ波帯バンドの活性化と防衛に寄与する事を前提として全国のマイクロ波を愛好するアマチュア局が実験と運用と相互の友好を進めることを目的に日本アマチュア無線連盟の後援を得て実施している。
東日本大震災 3・11・・から数年経過したが復興は予定通り進んでいないのが実態。特に福島原発が足枷となっている。東北方面ではまだまだ災害復興の途についたばかりです。・・・アマチュア無線局の皆さんの中にも被災された方々がいらっしゃいます。そして福島「原発」被害で悪戦苦闘中の方々も多くいらっしゃいます。
大震災で通信手段が断絶した時、アマチュア無線局が災害状態の連絡や救助連絡等々の非常無線通信活動を少数であるが災害活動に寄与したアマチュア無線局がいた。非常無線通信は日頃からの通信技術の訓練と通信機器の点検が必要である。このような事も念頭におき毎年2回マイクロ波帯愛好局が全国規模で通信実験を実施している。
参考に:金銭上の利益のためではなく、 無線技術に対する個人的興味から自己訓練、通信、技術的研究のために開設された無線局をアマチュア無線局といい、「ハム」という通称で親しまれている。
世界中に約230万局、また国内でも約56万局が開設されており、活発な無線交信が行われている。また無線科学の進歩、国際親善等にも寄与してきており、更に非常災害時には、人命救助等にも活躍するなど社会的にも貢献している。
四国では、何時発生しても不思議でない南海地震に対して各自治体は防災訓練を行っており、アマチュア無線局との連携も密にしている。
アマチュア無線全国縦断一斉マイクロ波帯大移動運用会開催実行委員事務局は、横浜市のJH1UGF:槇岡 寛幸氏です。

註:マイクロ波帯とは、一般に周波数が1~10GHzのUHF・SHF・EHFを含む周波数の総称がマイクロ波と呼ばれその中でもSHF「Super High Frequency」の略語で波長は1~10cm未満、3GHz~30GHz以下の周波数を言う。主に衛星通信、衛星放送、市外電話回線、各種レーダーが用途で、勿論アマチュア無線も含まれる貴重なバンドです。全国(縦断)一斉マイクロ波バンド大移動運用会はSHF帯が主である。
画像は、10月5日・6日に行われた第23回・全国(縦断)一斉マイクロ波バンド大移動運用会に参加した、JR5EEKの設備と移動運用地点からみた風景を掲示しました。


第23回「全国一斉マイクロ波バンド大移動運用会に参加した設備
使用するANTは衛星放送仕様で直径68cmのパラボラANTを使用。
5600MHz・10,1GHzの設備と、手前は、1200MHz・2400MHZ設備。


運用地点の松山自動車道伊予灘SA上りのレストラン。
SAの規模は小さいがいろんな設備が完備されていた移動運用には最適。


そして俳句のメッカとあってこの、松山自動車道伊予灘SA上りにも子規の句碑がある。その1


松山自動車道伊予灘SA上りにある子規の句碑、その2。


松山自動車道伊予灘SA上りにも画像のような施設がある。


松山自動車道伊予灘SA上りからの風景(松山空港方面でその向こうは瀬戸内海、伊予灘)


松山自動車道伊予灘SA上りからみた伊予松山城天守。コンデジ780mm相当で撮影。


松山自動車道伊予灘SA上りからみた松山市営野球場(愛称・坊ちゃん球場)


松山自動車道伊予灘SA上りからみた松山空港。・・有名なのは、昭和19年海軍松山航空隊に、源田 実海軍大佐率いる当時日本海軍最強部隊が居たためである。
海軍航空隊は、三四三航空隊を編成しその司令官に「源田 実」海軍大佐が航空隊指令官として任命され、隊の編成は横須賀であったが、訓練基地は松山が一番いいと源田大佐の意向で急遽松山に決定したそうだ。・・それが現在の松山空港である。
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俳句の街松山の句碑巡り 6 石田波郷

2013年10月04日 | 伊予松山歴史散策

石田 波郷
愛媛県温泉郡垣生村大字西垣生980番地に、父惣五郎、母ユウの次男として生まれる。本名哲大(てつお)。大正2年3月18日~昭和44年11月21日。小学生の頃から友人と俳句を作って遊んでいたが、本格的に句作を始めたのは県立松山中学校(現・松山東高校)4年の時、同級生の中富正三(後の俳優・大友柳太朗)のすすめで句作をはじめ、俳号を「二良」「山眠」、と号した。ちなみに大友柳太朗(中富正三)は「如煙」、「悠々」と号した。昭和4年、同村の俳人中矢秋葉を識り、翌年、松山中学校卒業後、秋葉の紹介で余土村の五十崎古郷(秋桜子門)を訪ねて入門、古郷より「波郷」の号を与えられる。昭和7年12月、「馬酔木」新樹集巻頭に5句入選し、これが波郷の人生の進路を決定づけた。古郷は、便箋29枚に「涙を流しもって」秋桜子に宛て、波郷紹介の文を書いた。その手紙と路銀50円を持って、木綿絣の着物にセルの袴、その上にマントを羽織って2月20日上京したが、秋桜子にとってはいきなりの訪問であったようで、戸惑いがあった。

昭和18年9月23日、召集令状が来て佐倉隊に入隊、10月はじめ北支に派遣、翌年3月左湿性胸膜炎を患い、昭和20年1月内地送還、それより闘病生活が長く続き、入院回数7回、胸部手術をすること6回、入院生活通算5年1ヶ月に達した。この間懸命の句作を続け、療養生活の中に生のモラルを追求した。「惜命・しゃくみょう」等の一連の作品は絶唱である。そのような情況のもと、昭和25年から6年半、「馬酔木」編集も担当している。昭和30年1月「定本石田波郷全句集」の業績で第6回読売文学賞を、昭和44年4月には、句集「酒中花」により芸術選賞文部大臣賞を受け、病床にも拘わらず栄光があった。久保田万太郎も、「彼の生活に根ざした叙情の得やすからざるみずみずしさ、その、ひとさらな人生詠嘆の深さ」を讃えている。彼の妻あき子も俳句をよくし、彼が命名した句集「見舞籠」昭和44年があるが、昭和60年10月21日50歳で波郷のあとを追うように短い一生を終えた。墓は、東京都調布深大寺にある。
また、波郷は東京療養所に入院中に、病室仲間のカメラを見て自分も興味をもち、退院後はキャノン、ローライ、ライカなどの高級カメラを入手して本格的な写真マニアになった。
そのころ波郷は
   秋晴れや肩にローライ手にライカ   石田波郷
という俳句を詠んでいる。昔の重い大型カメラを2台も持って、嬉々として撮り歩いている波郷の姿が目に見えるようだ。

註:大友柳太朗(本名は中富 正三)の父親は、山口県柱島(現岩国市)出身だが、母親は広島県能美島(現江田島市)の出身で、柳太朗は母親の実家に近い広島市中の棚(現在の同市中区立町付近)で生まれ、父親は出生届を柱島で出した。生後間もなく柱島で育ち、小学校3年から5年までは山口県周防大島(現同県大島郡)で育った。昭和10年、松山中学(現・愛媛県立松山東高等学校)卒業後、大阪へ出て新国劇に入り、辰巳柳太郎に師事。同じ松山中学出身の映画監督伊藤大輔から「大輔」の名を譲り受け、中富大輔の芸名で初舞台を踏む。


波郷の句碑は少なく松山市神田町の「定秀寺」と道後一万「愛媛県文化会館」東通りの俳句ストリートの道にある。
画像の句碑は、定秀寺境内、本堂前の「本願寺第24代ご門主ご巡回記念」に植えられた「印度菩提樹」の後ろにある。
句は、泉への道後(おく)れゆく安けさよ・・波郷、昭和27年の作。
石田家が定秀寺の門徒であったことから、境内に波郷の句碑が建てられた。


句碑の前に石に埋め込まれている石田波郷の句と略歴。


神田町の「定秀寺」。


「定秀寺」の寺号碑。


道後一万「愛媛県文化会館」東通りの俳句ストリートにある。
句は「ほしいまま 湯気立たしめて ひとり居む 」


道後一万「愛媛県文化会館」東通りの俳句ストリートの南北通り、東側の北端にある、句の説明板。
この俳句ストリートの両側には以下の句碑が並んでいる。

  ○永き日や あくびうつして 分れ行く (夏目漱石)

  ○春百里 疲れて浸る 温泉槽哉 (村上齋月)

  ○馬しかる 新酒の酔いや 頬冠 (正岡子規)

  ○糠ほすや にわとり遊ふ 門の内 (正岡子規)

  ○温泉めぐりして 戻りし部屋に 桃の活けてある (河東碧梧桐)

  ○いろいろの 歴史道後の 湯はつきず (前田伍健)

  ○湯上りを 暫く冬の 扇かな (内藤鳴雪)

  ○伊予と申す 国あたたかに 温泉わく (森盲天外)

  ○湯の町の 見えて石手へ 遍路道 (柳原極堂)

  ○ほしいまま 湯気立たしめて ひとり居む (石田波郷)

  ○ずんぶり 湯の中の 顔と顔笑ふ (種田山頭火)



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俳句の街松山の句碑巡り 5 内藤鳴雪

2013年10月02日 | 伊予松山歴史散策

内藤鳴雪
弘化4年(1847)4月15日~大正15年2月20日(1926)80歳は、江戸、三田の伊予松山藩中屋敷で、父房之助同人、母八十の長男として生まれる。本名素行(なりゆき)。幼名助之進。漢詩には「南塘」の号を用いた。下村為山の従兄である。藩校「明教館」や江戸の「昌平学」で漢学を修め、明治8年、熊本県より転任して来た土佐生まれで進歩的な権令(県知事)岩村高俊によって県学務課長を命じられた。翌年、師範学校を創設し、末広鉄腸の推薦で、慶応義塾卒業の草間時福を招いて、変則中学校(松山東高の前身)を創設した。明治13年、学務課長を辞して文部省へ転任したが、思うところあって明治24年、44歳で退官し、常盤会寄宿舎(現・常盤学舎)の監督となる。翌年、子規に導かれ、45歳から本格的に俳句を始め、これが彼終生の道となる。明治40年(60歳)常盤会の監督を、陸軍騎兵中将であった秋山好古に譲り、俳人としての人生は約15年間であったが、鳴雪は45歳からの晩年35年間もの作句生活が続いた。この35年間は、子規の全生涯に相当するものである。鳴雪は、少年時代、漢詩を子規の外祖父大原観山に学んだが、のち、俳句を観山の娘の子である子規に学んだので次の句がある。
詩は祖父に俳句は孫に春の風・・鳴雪
鳴雪の号は、「世の中の事は成り行きにまかす」の意と本名「素行」とのもじりであり、別号「老梅居」は、「狼狽している」ことから出たもので、よく物忘れをしたとも、あわて者であったともいう。痩せこけて、背が高く、あごひげを神経質に引っぱりながら、高い声で「・・でやす。」「・・でやした。」というのが口癖であったといわれている。
辞世の句 ただ頼む湯婆一つ寒さかな・・墓は東京青山墓地


松山市末広町にある正宗禅寺(子規堂)にある、内藤鳴雪の髯塔。裏面に「髯塔、昭和3年5月建」とある。右隣に子規の「子規居士髪塔」がある。


正宗禅寺(子規堂)にある、内藤鳴雪の髯塔と正岡子規の髪塔で、その前に与謝野昌子の詩碑がある。


与謝野昌子の詩碑。


松山市丸之内にある東雲神社境内の句碑。
句は、「東雲のほがらかほがらかと初桜」
この句は、明治26年4月4日子規庵での作。その時下五は「朝桜」となっていたが、当日の運座で「天」に入っている。この時数え47歳。大正13年の夏、東雲神社の能舞台の横にあった石を利用して、鳴雪の句碑建立を思い立った田内宮司が、当時の久松家の家令であった菅節と相図って、鳴雪に交渉して、神社ゆかりのこの句を揮毫してもらい、大正14年夏建立したものである。鳴雪逝去の前年のことであった。


松山市道後公園、公園西口にある句碑。
句は「元日や一糸の天子不二の山」
昔から新年の句として有名なこの句碑は、内藤鳴雪70歳のお祝いして建てた寿碑で、正岡子規・高浜虚子・河東碧梧桐・村上霽月らの句碑に先んじて建立された。鳴雪が、嘗て常盤会寄宿舎の監督をしていた頃の寄宿生、勝田主計(当時の大蔵・文部大臣)らが発起人となって碑を建立した。鳴雪は17年振り、夫人は30年振りの帰郷で、夫婦そろって大正7年10月27日の除幕式に出席した。鳴雪71歳であった。式上、極堂が建立由来を説明し、鳴雪の謝辞があり、その後、県公会堂(県庁の東別館の辺り)で祝賀会があった。これが鳴雪最後の帰郷となった。


「元日や一糸の天子不二の山」句碑の裏面。


これからの画像は、平成17年5月13日撮った。
東京都文京区教育委員会が設置している、常盤会跡の説明板。
場所は、文京区本郷四丁目10番13号にある。


常盤会跡地は、日立本郷ビルとなり、現在はこのビルも無くなっている。
なお、常盤会寄宿舎は、現在、常盤学舎と改名し、東京都東久留米市中央町1丁目に移転し、旧伊予松山藩主久松家によって創設され、内藤鳴雪や、秋山好古が監督を勤めた「常盤会」と、秋山眞之らが作った「松山同郷会」は現在、財団法人常盤同郷会として松山市歩行町の秋山兄弟生誕地に本部を置き、青少年の育英団体として活動している。


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俳句の街松山の句碑巡り 4 種田山頭火

2013年10月01日 | 伊予松山歴史散策

種田山頭火、明治15年12月生まれ、昭和15年10月11日逝去、享年59歳。山口県吉敷郡防府町西佐波令大字八王寺1390(現・防府市八王寺二丁目13)の大地主の父・種田竹次郎、母・フサの長男として生まれる。本名正一。「山頭火」の号は、師の萩原「井泉水」に習って、運勢判断の「納音」によったものである。早稲田大学文学部入学3年、明治37年2月、病のため中退、父と酒造業を営む。11歳のとき、明治25年母が投身自殺、35歳のとき、酒倉の酒が2年に渡り腐敗して破産、父は他郷へ、37歳のとき弟が自殺し、母代わりの祖母も死去、39歳のとき結婚、12年目のとき戸籍上の離婚、42歳のとき東京で大震災にあい妻の居る熊本に帰る。このように山頭火の私生活は暗いことばかりが続いた。その間、明治44年(30歳)頃から地元の「青年」という雑誌に作品を発表、文章には「山頭火」の号を、大正2年から萩原井泉水に師事して「層雲」に投句する。大正13年酒に酔い熊本市電の前で仁王立ちする事件を機に、仏門に入るが、その後妻も子もすてて雲水姿で全国を遍歴、果てしない旅に出る。昭和14年10月、松山市の高橋一洵、藤岡政一、大山澄太の三人に迎えられ、母「釈順貞信女」の位牌を抱いて松山に来た。その後四国巡拝などをして、昭和14年12月15日一洵らの世話で、市内御幸町御幸寺の黒田和尚の好意で、境内の納屋を改造してもらい入庵、のち大山澄太が一草庵と名づけ、以来「風の夜を来て餅くれて風の夜をまた」の句のように松山の知友に暖かく迎えられて過ごし、死の前夜も同庵で句友の句会があり、山頭火はそのそばで、泥酔卒倒、高鼾であったが、翌朝午前4時頃死去。妻子を捨て、社会を捨て、行乞の人生を送り、自然と一体になり、自己に偽らず、自由に一筋の道を詠いつづけた。生涯詠みすてた句は、8400句といわれる。墓地は山口県防府市報国寺裏の共同墓地にある。


種田山頭火終焉のち「一草庵」入口の案内板。
所在地、松山市御幸町一丁目435番地1


市内御幸町御幸寺の黒田和尚の好意で、境内の納屋を改造してもらい入庵、当時の一草庵、年代は不明。


山頭火没後何人かの人が居住したが、老朽化が進み、昭和27年10月、当時の愛媛県知事・久松定武を会長とする「山頭火顕彰会」が浄財を集め再建した。


昭和55年、一草庵は「山頭火顕彰会」から松山市に寄贈され、以来、松山市の管理することになった。平成7年からは、春と秋に期間限定で庵の内部を公開していたが、公開日の拡大を望む声も多く、松山市は「坂の上の雲まちづくり」の一環として、一草庵の周辺を整備した。平成19年10月に事業に着手、隣接する用地を取得して休憩所等の便益施設を建設、平成21年3月に完成した。工事にあわせて「一草庵」の改修も行い昭和27年の再建時の姿が甦った。


一草庵にある句碑、「鐵鉢の中へも霰」
昭和7年1月8日、福岡県遠賀郡芦屋町で托鉢に出たときの句。没後初めて建てられた(山頭火にとって2番目の)句碑で、山頭火の髯(あごひげ)が納められている。昭和16年3月21日建立。


一草庵にある句碑、「春風の鉢の子一つ」
昭和8年3月19日、山口市小郡町での句。「鉢の子」は、托鉢僧が使う容器。厳しい冬は「鉄鉢」、暖かい春は、「鉢の子」と詠み方を変えている。
昭和48年3月21建立。


句は「もりもりもりあがる雲へあゆむ」
四国88ヶ所第52番札所太山寺参道に建立されている句碑。
山頭火が太山寺巡拝のときに詠んだとあり、又山頭火句帳には、昭和15年9月1日と記されている。没後60周年記念として、平成12年8月27日建立。


子規記念博物館前から石手寺を通る県道沿いに建立されている句碑。
「分け入つても分け入つても青い山 」
山頭火は、この句の前書きに「解くすべもない惑いを背負い行乞の旅に出た」とある。青は緑という意味である。自らの迷いの深さを山々の緑の深さに重ねた句である。松山市内に建立されている一番新しい山頭火の句碑。


一草庵内部で土日祝日に内部公開、入場無料。公開時間は、午前9時から午後5時まで、但し季節により時間変更あり。


一草庵玄関に掲げてある扁額。
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