種田山頭火、明治15年12月生まれ、昭和15年10月11日逝去、享年59歳。山口県吉敷郡防府町西佐波令大字八王寺1390(現・防府市八王寺二丁目13)の大地主の父・種田竹次郎、母・フサの長男として生まれる。本名正一。「山頭火」の号は、師の萩原「井泉水」に習って、運勢判断の「納音」によったものである。早稲田大学文学部入学3年、明治37年2月、病のため中退、父と酒造業を営む。11歳のとき、明治25年母が投身自殺、35歳のとき、酒倉の酒が2年に渡り腐敗して破産、父は他郷へ、37歳のとき弟が自殺し、母代わりの祖母も死去、39歳のとき結婚、12年目のとき戸籍上の離婚、42歳のとき東京で大震災にあい妻の居る熊本に帰る。このように山頭火の私生活は暗いことばかりが続いた。その間、明治44年(30歳)頃から地元の「青年」という雑誌に作品を発表、文章には「山頭火」の号を、大正2年から萩原井泉水に師事して「層雲」に投句する。大正13年酒に酔い熊本市電の前で仁王立ちする事件を機に、仏門に入るが、その後妻も子もすてて雲水姿で全国を遍歴、果てしない旅に出る。昭和14年10月、松山市の高橋一洵、藤岡政一、大山澄太の三人に迎えられ、母「釈順貞信女」の位牌を抱いて松山に来た。その後四国巡拝などをして、昭和14年12月15日一洵らの世話で、市内御幸町御幸寺の黒田和尚の好意で、境内の納屋を改造してもらい入庵、のち大山澄太が一草庵と名づけ、以来「風の夜を来て餅くれて風の夜をまた」の句のように松山の知友に暖かく迎えられて過ごし、死の前夜も同庵で句友の句会があり、山頭火はそのそばで、泥酔卒倒、高鼾であったが、翌朝午前4時頃死去。妻子を捨て、社会を捨て、行乞の人生を送り、自然と一体になり、自己に偽らず、自由に一筋の道を詠いつづけた。生涯詠みすてた句は、8400句といわれる。墓地は山口県防府市報国寺裏の共同墓地にある。
種田山頭火終焉のち「一草庵」入口の案内板。
所在地、松山市御幸町一丁目435番地1
市内御幸町御幸寺の黒田和尚の好意で、境内の納屋を改造してもらい入庵、当時の一草庵、年代は不明。
山頭火没後何人かの人が居住したが、老朽化が進み、昭和27年10月、当時の愛媛県知事・久松定武を会長とする「山頭火顕彰会」が浄財を集め再建した。
昭和55年、一草庵は「山頭火顕彰会」から松山市に寄贈され、以来、松山市の管理することになった。平成7年からは、春と秋に期間限定で庵の内部を公開していたが、公開日の拡大を望む声も多く、松山市は「坂の上の雲まちづくり」の一環として、一草庵の周辺を整備した。平成19年10月に事業に着手、隣接する用地を取得して休憩所等の便益施設を建設、平成21年3月に完成した。工事にあわせて「一草庵」の改修も行い昭和27年の再建時の姿が甦った。
一草庵にある句碑、「鐵鉢の中へも霰」
昭和7年1月8日、福岡県遠賀郡芦屋町で托鉢に出たときの句。没後初めて建てられた(山頭火にとって2番目の)句碑で、山頭火の髯(あごひげ)が納められている。昭和16年3月21日建立。
一草庵にある句碑、「春風の鉢の子一つ」
昭和8年3月19日、山口市小郡町での句。「鉢の子」は、托鉢僧が使う容器。厳しい冬は「鉄鉢」、暖かい春は、「鉢の子」と詠み方を変えている。
昭和48年3月21建立。
句は「もりもりもりあがる雲へあゆむ」
四国88ヶ所第52番札所太山寺参道に建立されている句碑。
山頭火が太山寺巡拝のときに詠んだとあり、又山頭火句帳には、昭和15年9月1日と記されている。没後60周年記念として、平成12年8月27日建立。
子規記念博物館前から石手寺を通る県道沿いに建立されている句碑。
「分け入つても分け入つても青い山 」
山頭火は、この句の前書きに「解くすべもない惑いを背負い行乞の旅に出た」とある。青は緑という意味である。自らの迷いの深さを山々の緑の深さに重ねた句である。松山市内に建立されている一番新しい山頭火の句碑。
一草庵内部で土日祝日に内部公開、入場無料。公開時間は、午前9時から午後5時まで、但し季節により時間変更あり。
一草庵玄関に掲げてある扁額。