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俳句の街松山の句碑巡り 7 中村草田男

2013年10月09日 | 伊予松山歴史散策


中村草田男
「降る雪や明治は遠くなりにけり」は、名句。
明治34年7月24日、清国福建省廈門にて清国領事・修の長男として生まれる。本名清一郎。4歳の時父の故郷・松山に帰る。松山中学から松山高等学校そして東京大学に進学。この間神経衰弱で一時休学。29歳の時虚子に就き、東大俳句会に入会、33歳で子規を卒論に書き卒業後、成蹊学園に就職。そして水原秋桜子の指導をうけつつ「ホトトギス」に投句、「降る雪や明治は遠くなりにけり」などの名句の載る第1句集「長子」が出版されたのは、昭和14年のことであった。昭和44年、定年退職し成蹊大学名誉教授となる。草田男の俳句は、人生と深く関わろうとする苦闘のあとを示し、「人間探求派」と呼ばれた。石田波郷・加藤楸邨もこの派の俳人で、この三人のうち二人までが愛媛の俳人であった。松山中学の同期だった二神伝三郎(元愛媛県立松山北高等学校校長)は、「草田男は、平素は無愛想に見えたが、しゃべりはじめるととめどもなくなる。友人は少なかったようだが、人をひきつける大きな力があり、自然とつきあいも深くなった。」と語っている。松山での住居は、二番町二丁目7の日の丸駐車場の辺りであった。草田男の主宰する月刊誌「萬緑」の誌名は、彼の句集「火の鳥」昭和14年の中の句「萬緑の中や吾子の歯生え初むる」に因んだもので、この句以来、「萬(万)緑」は新しい季語として定着した。
降る雪や明治は遠くなりにけり・・この句は昭和6年、大学生だった草田男が大雪の日にかつて学んだ母校の赤坂区青南小学校(のちの港区立青南小学校)を訪問した際に生まれた。降りしきる雪の中に居ると、時と場所の意識が空白となり、現在がそのまま明治時代であるかのような錯覚と、明治時代が永久に消えてしまったとの思いが同時に強まったという。現在、句碑として当小学校内に建っている。・・よある。


句は、「夕桜城の石崖裾濃なる」。
所在は、松山市東雲町、東雲公園内にある。
市内、唯一つの句碑で、昭和11年、第1句集「長子」の中の句、昭和9年帰郷時の作。「裾濃」とは衣服や鎧の縅(おどし)の色合いで、上が淡く、下方になるほど濃いもののこと。この自筆句碑は、草田男主宰の俳誌「萬緑」の会員らが力を合わせてこの素晴らしい環境に建立し、昭和58年8月6日除幕式予定のところ、前日の8月5日急逝のため取りやめとなり、改めて、翌59年8月25日、家族・「萬緑」の会員らが出席して、お孫さんの手で除幕した。草田男は、自分の句碑建立にはなかなか消極的であった。草田男の句碑は非常に少なく、松山市内にはこの句碑のみで、もう一つは、松山市中島(旧温泉郡中島町大浦)にある愛媛県立松山北高等学校中島分校正門入り口右にある。・・私は未だ伺ったことがないので是非一度行って句碑を見てみたい。中島には船で松山高浜港から海上約1時間40分掛かる。
その句碑は、「一度訪ひ二度訪ふ波やきりぎりす」と言う自筆の句碑である。


市内、唯一つの句碑、「夕桜城の石崖裾濃なる」の裏面。


「夕桜城の石崖裾濃なる」の句碑がある、松山市東雲公園で、奥の山の頂には、伊予松山15万石の天守が見える場所で、それで「素晴らしい環境に建立し」とあるのかも??。


東雲公園は、慶長15年(1610)頃から徳川・豊臣両氏の間がとやかく風説があったので、加藤嘉明はこの情勢を察し、東ノ郭補強として外堀構築を計画し、町人府中屋念斎に命じてその工事に当らせた。工事は慶長18年(1613)頃から始まった。場所は、今の東雲町の北側にある堀跡(現在東雲公園)はその一部で、念斎が構築したものだから世に「念斎堀」と呼ばれ、別名「薬研堀」・「土器堀」とも呼ばれていた。工事は、元和元年(1615)大坂夏の陣により豊臣氏が滅亡したのを機に工事は中止された。この堀は昭和30年に埋め立てられ東雲公園と市立東雲保育園となっている。以上のような由緒ある場所に句碑がある。


初代伊予松山藩主、加藤嘉明が外堀構想を最初に手がけた念斎堀で、別名「薬研堀」・「土器堀」とも呼ばれていた。その説明板を東雲公園に松山市教育委員会が設置している。右下の句碑の印が草田男の句碑所在地。
念斎堀「別名「薬研堀」・「土器堀」とも呼ばれていた。
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