EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

松山市の秋山兄弟生誕地の染井吉野桜が開花

2013年10月22日 | 伊予松山歴史散策
9月下旬に一時期気温が下がったが、相次ぐ台風の発生で太平洋側から暖かい空気が入った影響で気温が上がり全国的に季節外れの暑さが続いている。今日(21日)も松山は最高気温が24,1度もあった。この異常気象のため全国各地の染井吉野桜が異常開花している。秋山兄弟生誕地の生家、好古騎馬像、眞之胸像等々の再建は平成17年1月18日に完成し19日から一般公開されており、その間秋山邸の染井吉野桜を観察しているが、この時期の開花は今年初めてであります。9月半ばに葉は全部散り落とし、今年の落葉はあまりにも早すぎと感じていました。するとこの時期に開花が始まりました。染井吉野桜の開花は基本的には春一回だけの開花だそうです。・・異常気象のための現象でしょうか??
画像は、昨日撮った秋山兄弟生誕地の染井吉野桜です。


染井吉野桜の開花は、先に花が咲き、花が散ってから葉が出てきますが、現在は花と葉が同時に出ています。・・これも異常です。












画像は今年3月25日満開の秋山兄弟生誕地の染井吉野桜、通称:秋山兄弟桜。
この染井吉野桜は、旧市内では一番大きな桜で、樹形も兄弟生誕地に相応しく同じ大きさの枝が二つに分かれており、秋山兄弟生誕地では「秋山兄弟桜」と呼んでおります。
旧市内は、昭和20年7月26日松山大空襲で焼け野原になりましたので桜の木も残っておりません。この桜も戦後植栽したものです。
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平成25年度 JARL愛媛県支部主催マイクロ波帯講習会

2013年10月21日 | 伊予松山歴史散策
平成25年10月20日(日曜日)、愛媛大学農学部で日本アマチュア無線連盟(JARL)愛媛県支部主催のマイクロ波帯講習会が今年も松山市で開催されました。
参加局は、東京・神戸・岡山・三原・広島・北九州・宗像市・別府市・大分県日出町・大分市から参加頂き地元愛媛の局との交流も行われ今後の活動の指針とすることが出来ました。
この講習会は初代JARL愛媛県支部長 松本純一氏が昭和55年12月21日に製作講習会(1200MHz帯トランスバーター)として開催、これが愛媛のマイクロ波帯の幕開けでありました。
当時の会場も今回の会場隣、愛媛大学付属農業高等学校(現、愛媛大学付属高等学校)でありました。以後毎年、計画的に、2400MHz・5600MHZ・10GHZ・24GHz・47GHz・77GHzの製作講習会を開催し西日本で先行してきました。
昨今通信手段の激変で、昭和の時代と講習内容が変わりましたが、これからもアマチュア無線でないと出来ない事柄があり、特に大規模災害時に地元自治体の要請に対応出来る通信技術の保持と、社会に少しでも貢献できる様心掛けて講習会を継続して行きたいと思います。特に四国では、南海地震の発生時に社会貢献が出来る様日頃から機器の保守点検も必要であります。
                記
1、日   時 平成25年10月20日(日) 午前10時~午後2時
2、場   所 愛媛大学農学部
3、主   催 日本アマチュア無線連盟愛媛県支部
4、内   容 
 (1):デジタルATV、運用報告を画像でマイクロウエーブ大分:JA6MQT局長「九州・中国におけるデジタルATV      運用」の現況を画像で講演
 (2):CQ誌1200MHz帯コラム担当:JF1TPR局長「マイクロ波帯運用について」諸外国の例をあげてその活用     について画像で講演
         
5、質疑応答
      

講習会場の愛媛大学農学部正門。


講習会に参加され、特にマイクロ波帯を主たる運用バンドとして活躍されている局長各位。


マイクロウエーブ大分の、JA6MQT:松本さんが日頃の活動を講話、その活躍ぶりを熱心に聞く参加者。


マイクロウエーブ大分の、JA6MQT:松本さんが画像で講話、九州各局は、デジタルATV移動運用は日本の最先端をいっている。5,6G・10G・24GHz帯のデジタル映像通信であります。


マイクロウエーブ大分クラブの移動運用の画像を見て下さい。


移動には大きなパラボラANTを持っての移動、後は電源が必要で発電機または、自動車用バッテリーを使用。


マイクロウエーブ大分クラブの「JA6MQT局とJA6SPI局」の24GHz帯のANT。


マイクロウエーブ大分クラブの「JA6MQT局とJA6SPI局」の24GHz帯の無線機器、プロ同然の機器仕様・・全部個人が製作した無線設備。東京箱根往復大学駅伝の中継もこんな感じで行っています。


JA6EES局の無線設備、車自体が無線機器で満載、この時は大分県と岡山県とのデジタルATV通信実験をされた時の画像。


続いて、東京都のJF1TPR局長・・JF1TPR局は、アマチュア無線専門月刊誌「CQ誌」の1200MHz帯コラム担当者で、日頃は高等学校の教諭として教鞭をとっておいでです。講演は、マイクロ波帯の運用について、外国の例を挙げて講話をして頂きました。


いま、自動メーカーが追突防止装置を装着していますが、使用している電波は77GHzだそうです。・・勿論アマチュア無線にも与えられているバンド帯域があります。
家庭の電子レンジは、2400MHz帯で、PCの無線ランも2400MHz帯。


そしてJF1TPR局長が進めるマイクロ波帯は5GHzがいいですと。伝播距離も楽しめますと・・話された。高速道路料金所のECT処理が5600MHzの電波である。


自作で簡単に製作出来るANTを紹介された。ANTの形式は水平面無指向性ANT・・AGWANTで、かって松山に設置していた5600MHzのレピータ局のANTがこの形式のものでありました。
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第19回 SHFバンド愛好者の集い・松山 最終回

2013年10月20日 | 伊予松山歴史散策
平成7年9月30日から始まった表記の集会も今年で幕を閉じることとしました。
一時期は、北海道、東京、横浜、愛知、大阪、滋賀、神戸、岡山、広島、福岡、鹿児島、大分県各地から参加頂きマイクロ波帯のアマチュア無線活性化に一助を果たしてきました。
日本アマチュア無線連盟愛媛県初代支部長、JA5AH・松本純一氏は、四国ではマイクロ波帯を運用する局はいなのでなんとかしようと、平成4年9月5日、西日本地区初の5600MHz帯トランスバーター製作講習会を松山市でJARL愛媛県支部主催で開催、講師は横浜市のマキ電気社長、JH1UGF、槇岡寛幸氏の指導で行われた。
平成6年7月3日、全国初の10,1GHz帯のトランスバーター製作講習会を開催、平成7年1月8日、松山地区にマイクロ波帯の研究同好会「松山地区SHF研究会」が、代表JA5JSU、久山 出氏を中心に発足、呼び出し符号は、JH5ZHRであった。
平成7年1月13日から全国初となる「松山5,6GHzロールコール」を毎週金曜日にスタートさせた。
平成8年9月29日、JARL愛媛県支部主催で24GHz帯のトランスバーター製作講習会を全国トップを切って開催。平成10年10月25日、松山地区SHF研究会企画、JARL愛媛県支部主催で47GHz帯のトランスバーター製作講習を開催。同日、愛媛におけるマイクロ波帯のパイオニア達が延べ123局に達した。平成11年5月1日、日本アマチュア無線連盟(JARL)第41回通常総会が松山市県民文化会館で、道後総会として開催され、この時運用された、道後総会特別記念局、8J5DOG運用バンドにマイクロ波帯(2,4G・5,6G・10,1G・24G・47GHz)の記念運用を行った。特に47GHz運用は全国初であった。
平成12年10月には、75GHz帯のトランスバーター製作講習を開催してきた。そして製作講習会の前日に行ってきたのが、E/SHFバンド愛好者の集い・松山集会であった。この集会は、次なる製作講習会の準備手段となった話し合いの場であった。
また、平成13年6月24日、西日本初の5600MHzレピータを設置、コールサインは、JP5YCKを開設した。この局は、機器の劣化で平成21年7月14日廃局とした。
以上のようなマイクロ波帯の振興と活性化に寄与してきた松山集会も、激変する情報伝達社会の対応の波に耐え切れずアマチュア無線界との格差が大きくなった。
しかし集会活動は、閉幕するが、個々の局の無線通信伝播電波技術は、各地で今まで通り行い、通信機器の点検と通信技術を継続し災害時には、社会に少しでも貢献出来るよう日々切磋琢磨していかねばならない。

画像は、10月19日(土曜日)午後6時から松山市大街道「すし丸」で開催しました。
最後の松山集会です。

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俳句の街松山の句碑巡り 10 高校俳句甲子園 個人最優秀句記念句碑

2013年10月13日 | 伊予松山歴史散策
子規が明治28年故郷松山に帰った時に詠んだ「春や昔15万石の城下哉」
松山を代表する句で118年前の事である。
日清戦争従軍記者として戦地に赴く前に、松山はこれが見納めか、と言う感慨おも籠められて、この句を詠んだのであろう。
それから、大正、昭和、平成と遍歴し、現在は、俳都松山で、全国各地から俳句という短詩系文学を介して高校生達が松山市に集い、日本語を操る能力の向上、将来日本俳句文学の振興と、高校生相互の文化交流を介して豊かな人間性を育むことを目的として、全国高等学校俳句選手権大会(高校俳句甲子園)が開催されている。予選は、四国最大の商店街「大街道」で行い、決勝戦は松山市総合コミュニティーセンタの文化ホールで行う。試合は、1校5名で編成され、575の三句定型の中に託された言葉の表現で戦いが行われる。
高校俳句甲子園では、個人最優秀句が審査委員の先生方が厳選な審査を行い決定される。個人最優秀句の選ばれた句は、愛媛県で一番参拝者の多い「伊予豆比古命神社・通称・椿神社」境内に、その栄誉を永久に保存する句碑玉垣として建立されている。
また、予選会場となる、大街道商店街のアーケードの柱に真鍮で造られた個人最優秀句を作成し掲示されている。
画像は、「伊予豆比古命神社・通称・椿神社」境内に建立されている、句碑玉垣である。


伊予豆比古命神社・通称・椿神社境内北側にある椿会館前にある。
所在地は、松山市居相二丁目2番1号。


現在、第1回目から第15回目までの、個人最優秀句が、句碑玉垣として建立されている。


第1回目から第15回目までの全体句碑玉垣。


第1回から第5回までの句碑
第1回:秋立ちて加藤登紀子が愛歌う    愛媛県立松山中央高等学校    白石ちひろ
第2回:朝顔の種や地下鉄乗り換えぬ    学校法人愛光学園 愛光高等学校 森川大和
第3回:裁判所金魚一匹しかおらず      学校法人愛光学園 愛光高等学校 菅波佑太
第4回:カンバスの余白八月十五日      愛媛県立松山東高等学校     神野紗希
第5回:夕立の一粒源氏物語          愛媛県立松山東高等学校     佐藤文香


第 6回:小鳥来る三億年の地層哉      学校法人開成学園 開成高等学校 山口優夢
第 7回:かなかなや平安京が足の下     京都市立紫野高等学校      高島春佳
第 8回:土星より薄に届く着信音        京都市立紫野高等学校      堀部 葵
第 9回:宛先はゑのころぐさが知ってをる   愛媛県立宇和島高等学校     本多秀光
第10回:山頂に流星触れたのだろうか    愛知県立幸田高等学校      清家由香里
第11回:それぞれに花火を待ってゐる呼吸  学校法人開成学園 開成高等学校 村越 敦


第12回:琉球を抱きしめにゆく夏休み    熊本県立菊池高等学校      中川優香
第13回:カルデラに湖残されし晩夏かな   学校法人開成学園 開成高等学校 青木 智
第14回:未来もう来ているのかも蝸牛    神奈川県立厚木東高等学校    菅 千華子
第15回:月眩しプールの底に触れてきて  学校法人開成学園 開成高等学校 佐藤雄志


句碑玉垣がある、伊予豆比古命神社・通称・椿神社。


四国一の規模を誇る「大街道商店街」画像に見える柱に全国高校俳句甲子園、個人最優秀句が掲示してある。




昨年第15回開催個人最優秀賞句、「月眩しプールの底に触れてきて」 学校法人開成学園 開成高等学校 佐藤雄志君の句碑が掲示してある。第1回目からの個人最優秀賞句が同形式で掲げてある。


第16回、今年開会された俳句甲子園、大街道商店街に特設舞台を12ヶ所設営して行われた。


平成25年、第16回俳句甲子園、個人最優秀賞を勝ち取った句、広島県立広島高等学校2年生、青本柚紀さん。近々椿神社境内と大街道商店街に掲げられる。
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俳句の街松山の句碑巡り 9 森田雷死久

2013年10月12日 | 伊予松山歴史散策


森田雷死久
本名は愛五郎。僧名・貫了。明治5年1月26日、伊予郡高柳村五地戸(現在の松前町西高柳)に、父弥市郎(43歳)母キヨの次男として生まれる。兄大龍、弟末光、姉タツ、妹ライがいた。父弥市郎は伊予郡恵久美村の庄屋を務めてきた喜安喜右衛門の7男として、文政13年3月21日に生まれ、幕末の頃、西高柳の森田善平の養子となった。雷死久は、明治8年9月、3歳の時出生番地において分家し戸主となっている。その原因は不明だが、自宅裏に教願寺があり、寺にはいったのかも知れない。12歳頃、温泉郡中島町大浦(現松山市中島)の真言宗・長隆寺に入り、2年くらいここで修行し、雷死久14歳で長隆寺を出て伊予市上吾川の谷上山宝珠寺に入り、約5年間修行し、明治22年、京都仏教大学林へ入学、真言宗智山派権田雷斧に師事し、本格的な佛法を学び、明治25年、21歳の時、少僧都となり、僧侶名も「貫了」となって帰郷した。伊予郡南山崎村上唐川本谷の真成寺の住職となり、明治34年4月唐川小学校の代用教員もしていた。明治36年、温泉郡潮見村平田(現松山市)常福寺住職となる。 なにより実践を尊ぶ真言行者の一人として、雷死久は地域果樹栽培の必要性を強く説き、自ら住職を務める常福寺の寺領2反歩あまりをそっくり梨園と変え、明治42年には温泉郡小野村(現松山市)にも「赤々園」という梨園を開いている。そして大正2年「伊予果物同業組合」を結成して初代専務となる。
 雷死久が俳句を始めた動機は不明だが、父弥市郎が販売していた愛比売新報は、日曜集として俳諧「花の曙」を発行していた。父親の友人に武智英俊がおり、英俊は子規の友人武市幡松の叔父でもあり、これらの縁で俳句を始めた。明治34年には南海新聞俳壇選者となり、37年には松山松風会復興大会を中心となって開催するなど、地方俳壇活性化に努めている。晩年は、下浮穴郡荏原村(現松山市)大蓮寺での俳夏行(はいげぎょう)に参加以来、その主催者・河東碧梧桐に共鳴、新傾向に走る。ホトトギスにも投句をしている。大正3年没。
雷死久の号は、彼の句「雷公の死して久しき旱かな」によるものと言われている。


句は、「木の芽日和慶事あるらし村人の」
木々の芽をもふく春のいいお天気の今日、この村の誰かの家でおめでたがあるとか・・そんな意味の句。筆跡は、自筆。
所在は、松山市平田町804番地、常福寺本堂の前にある。


市内、唯一つの句碑、「「木の芽日和 慶事あるらし村人の」の裏面。
裏面には、雷死久の略歴書かれている。俳句の興隆はもとより、地域の産業振興にも寄与した偉人。


何時頃の写真か不明。左より、森田雷死久・福島忠太郎・柳原極堂。


常福寺の石段を上がると松山新四国霊場第12番の新しい石碑がある。


常福寺の本堂と庫裏、最近建て直したのか新しい、句碑は本堂前にある。


違う角度からの庫裏と本堂。


常福寺と隣接して金比羅宮がある。

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