石田 波郷
愛媛県温泉郡垣生村大字西垣生980番地に、父惣五郎、母ユウの次男として生まれる。本名哲大(てつお)。大正2年3月18日~昭和44年11月21日。小学生の頃から友人と俳句を作って遊んでいたが、本格的に句作を始めたのは県立松山中学校(現・松山東高校)4年の時、同級生の中富正三(後の俳優・大友柳太朗)のすすめで句作をはじめ、俳号を「二良」「山眠」、と号した。ちなみに大友柳太朗(中富正三)は「如煙」、「悠々」と号した。昭和4年、同村の俳人中矢秋葉を識り、翌年、松山中学校卒業後、秋葉の紹介で余土村の五十崎古郷(秋桜子門)を訪ねて入門、古郷より「波郷」の号を与えられる。昭和7年12月、「馬酔木」新樹集巻頭に5句入選し、これが波郷の人生の進路を決定づけた。古郷は、便箋29枚に「涙を流しもって」秋桜子に宛て、波郷紹介の文を書いた。その手紙と路銀50円を持って、木綿絣の着物にセルの袴、その上にマントを羽織って2月20日上京したが、秋桜子にとってはいきなりの訪問であったようで、戸惑いがあった。
昭和18年9月23日、召集令状が来て佐倉隊に入隊、10月はじめ北支に派遣、翌年3月左湿性胸膜炎を患い、昭和20年1月内地送還、それより闘病生活が長く続き、入院回数7回、胸部手術をすること6回、入院生活通算5年1ヶ月に達した。この間懸命の句作を続け、療養生活の中に生のモラルを追求した。「惜命・しゃくみょう」等の一連の作品は絶唱である。そのような情況のもと、昭和25年から6年半、「馬酔木」編集も担当している。昭和30年1月「定本石田波郷全句集」の業績で第6回読売文学賞を、昭和44年4月には、句集「酒中花」により芸術選賞文部大臣賞を受け、病床にも拘わらず栄光があった。久保田万太郎も、「彼の生活に根ざした叙情の得やすからざるみずみずしさ、その、ひとさらな人生詠嘆の深さ」を讃えている。彼の妻あき子も俳句をよくし、彼が命名した句集「見舞籠」昭和44年があるが、昭和60年10月21日50歳で波郷のあとを追うように短い一生を終えた。墓は、東京都調布深大寺にある。
また、波郷は東京療養所に入院中に、病室仲間のカメラを見て自分も興味をもち、退院後はキャノン、ローライ、ライカなどの高級カメラを入手して本格的な写真マニアになった。
そのころ波郷は
秋晴れや肩にローライ手にライカ 石田波郷
という俳句を詠んでいる。昔の重い大型カメラを2台も持って、嬉々として撮り歩いている波郷の姿が目に見えるようだ。
註:大友柳太朗(本名は中富 正三)の父親は、山口県柱島(現岩国市)出身だが、母親は広島県能美島(現江田島市)の出身で、柳太朗は母親の実家に近い広島市中の棚(現在の同市中区立町付近)で生まれ、父親は出生届を柱島で出した。生後間もなく柱島で育ち、小学校3年から5年までは山口県周防大島(現同県大島郡)で育った。昭和10年、松山中学(現・愛媛県立松山東高等学校)卒業後、大阪へ出て新国劇に入り、辰巳柳太郎に師事。同じ松山中学出身の映画監督伊藤大輔から「大輔」の名を譲り受け、中富大輔の芸名で初舞台を踏む。
波郷の句碑は少なく松山市神田町の「定秀寺」と道後一万「愛媛県文化会館」東通りの俳句ストリートの道にある。
画像の句碑は、定秀寺境内、本堂前の「本願寺第24代ご門主ご巡回記念」に植えられた「印度菩提樹」の後ろにある。
句は、泉への道後(おく)れゆく安けさよ・・波郷、昭和27年の作。
石田家が定秀寺の門徒であったことから、境内に波郷の句碑が建てられた。
句碑の前に石に埋め込まれている石田波郷の句と略歴。
神田町の「定秀寺」。
「定秀寺」の寺号碑。
道後一万「愛媛県文化会館」東通りの俳句ストリートにある。
句は「ほしいまま 湯気立たしめて ひとり居む 」
道後一万「愛媛県文化会館」東通りの俳句ストリートの南北通り、東側の北端にある、句の説明板。
この俳句ストリートの両側には以下の句碑が並んでいる。
○永き日や あくびうつして 分れ行く (夏目漱石)
○春百里 疲れて浸る 温泉槽哉 (村上齋月)
○馬しかる 新酒の酔いや 頬冠 (正岡子規)
○糠ほすや にわとり遊ふ 門の内 (正岡子規)
○温泉めぐりして 戻りし部屋に 桃の活けてある (河東碧梧桐)
○いろいろの 歴史道後の 湯はつきず (前田伍健)
○湯上りを 暫く冬の 扇かな (内藤鳴雪)
○伊予と申す 国あたたかに 温泉わく (森盲天外)
○湯の町の 見えて石手へ 遍路道 (柳原極堂)
○ほしいまま 湯気立たしめて ひとり居む (石田波郷)
○ずんぶり 湯の中の 顔と顔笑ふ (種田山頭火)