EEKの紀行 春夏秋冬

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俳句の街松山の句碑巡り 5 内藤鳴雪

2013年10月02日 | 伊予松山歴史散策

内藤鳴雪
弘化4年(1847)4月15日~大正15年2月20日(1926)80歳は、江戸、三田の伊予松山藩中屋敷で、父房之助同人、母八十の長男として生まれる。本名素行(なりゆき)。幼名助之進。漢詩には「南塘」の号を用いた。下村為山の従兄である。藩校「明教館」や江戸の「昌平学」で漢学を修め、明治8年、熊本県より転任して来た土佐生まれで進歩的な権令(県知事)岩村高俊によって県学務課長を命じられた。翌年、師範学校を創設し、末広鉄腸の推薦で、慶応義塾卒業の草間時福を招いて、変則中学校(松山東高の前身)を創設した。明治13年、学務課長を辞して文部省へ転任したが、思うところあって明治24年、44歳で退官し、常盤会寄宿舎(現・常盤学舎)の監督となる。翌年、子規に導かれ、45歳から本格的に俳句を始め、これが彼終生の道となる。明治40年(60歳)常盤会の監督を、陸軍騎兵中将であった秋山好古に譲り、俳人としての人生は約15年間であったが、鳴雪は45歳からの晩年35年間もの作句生活が続いた。この35年間は、子規の全生涯に相当するものである。鳴雪は、少年時代、漢詩を子規の外祖父大原観山に学んだが、のち、俳句を観山の娘の子である子規に学んだので次の句がある。
詩は祖父に俳句は孫に春の風・・鳴雪
鳴雪の号は、「世の中の事は成り行きにまかす」の意と本名「素行」とのもじりであり、別号「老梅居」は、「狼狽している」ことから出たもので、よく物忘れをしたとも、あわて者であったともいう。痩せこけて、背が高く、あごひげを神経質に引っぱりながら、高い声で「・・でやす。」「・・でやした。」というのが口癖であったといわれている。
辞世の句 ただ頼む湯婆一つ寒さかな・・墓は東京青山墓地


松山市末広町にある正宗禅寺(子規堂)にある、内藤鳴雪の髯塔。裏面に「髯塔、昭和3年5月建」とある。右隣に子規の「子規居士髪塔」がある。


正宗禅寺(子規堂)にある、内藤鳴雪の髯塔と正岡子規の髪塔で、その前に与謝野昌子の詩碑がある。


与謝野昌子の詩碑。


松山市丸之内にある東雲神社境内の句碑。
句は、「東雲のほがらかほがらかと初桜」
この句は、明治26年4月4日子規庵での作。その時下五は「朝桜」となっていたが、当日の運座で「天」に入っている。この時数え47歳。大正13年の夏、東雲神社の能舞台の横にあった石を利用して、鳴雪の句碑建立を思い立った田内宮司が、当時の久松家の家令であった菅節と相図って、鳴雪に交渉して、神社ゆかりのこの句を揮毫してもらい、大正14年夏建立したものである。鳴雪逝去の前年のことであった。


松山市道後公園、公園西口にある句碑。
句は「元日や一糸の天子不二の山」
昔から新年の句として有名なこの句碑は、内藤鳴雪70歳のお祝いして建てた寿碑で、正岡子規・高浜虚子・河東碧梧桐・村上霽月らの句碑に先んじて建立された。鳴雪が、嘗て常盤会寄宿舎の監督をしていた頃の寄宿生、勝田主計(当時の大蔵・文部大臣)らが発起人となって碑を建立した。鳴雪は17年振り、夫人は30年振りの帰郷で、夫婦そろって大正7年10月27日の除幕式に出席した。鳴雪71歳であった。式上、極堂が建立由来を説明し、鳴雪の謝辞があり、その後、県公会堂(県庁の東別館の辺り)で祝賀会があった。これが鳴雪最後の帰郷となった。


「元日や一糸の天子不二の山」句碑の裏面。


これからの画像は、平成17年5月13日撮った。
東京都文京区教育委員会が設置している、常盤会跡の説明板。
場所は、文京区本郷四丁目10番13号にある。


常盤会跡地は、日立本郷ビルとなり、現在はこのビルも無くなっている。
なお、常盤会寄宿舎は、現在、常盤学舎と改名し、東京都東久留米市中央町1丁目に移転し、旧伊予松山藩主久松家によって創設され、内藤鳴雪や、秋山好古が監督を勤めた「常盤会」と、秋山眞之らが作った「松山同郷会」は現在、財団法人常盤同郷会として松山市歩行町の秋山兄弟生誕地に本部を置き、青少年の育英団体として活動している。


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