EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

東京世田谷区・秋山好古揮毫の石碑取材紀行

2013年10月25日 | 伊予松山歴史散策

平成17年5月3日GWの時に大阪から来た観光客が「秋山好古に関する書き物が重信町(現、東温市)の神社にあると聞いて来た。その神社に行きたいので教えて欲しい」と聞かれた。生誕地は開館してまだ期間も浅くそのような情報を持っていなかったので後日連絡させて頂くようお願いすると、「そんな事も知らんのか、バカタレが、わしは大阪から来たのだ、そんなに度々くる事など出来ない。そのくらい調べておけ」と・・その時は怒りをおぼえた。所在を調べると重信町下林にある築島神社とわかり早速伺い宮司さんに尋ねると本殿にある社号を好古が揮毫したことがわかった。大阪の人はこれを見に来たかったのかと判明しました。
この事があり私は、秋山好古が揮毫した石碑を調査し資料として保存し何時でもご案内出来る様準備をしておこう、そして平成21年1月7日が秋山好古生誕150年になる。是非記念の石碑写真集を刊行しようと思い全国各地から石碑の所在情報を得て写真取材を開始し現在に至っています。
平成25年4月1現在51基の石碑が発見され全て取材完了している。
今から思えば平成17年5月3日大阪の方の怒りの言葉がなかったら好古揮毫石碑の調査はなかったのである。

さて、これから石碑の中の一つである東京都世田谷区池尻にある石碑調査をしてきた出来事を紹介します。私が調査したときは、天候の関係と時間の制限のため、石碑裏面の事までは詳細な調査が出来てなかったが、今年、神奈川県平塚市の添田吉則氏が調査されましたので紹介します。
この石碑は現在発見されている中で一番古い石碑で明治29年6月30日に建立された石碑で建立者も好古自身である。日清戦争で戦死した騎兵隊員と亡くなった軍馬の哀悼碑である。
石碑裏面には亡くなった騎兵隊員の名前が刻まれている。この石碑の取材には苦労した。まず建立地が国有地で土地の管理者は財務省関東財務局、ここに秋山好古が建立したもので国は関知しない、現在は世田谷区役所に管理をさせているとの事、区役所に連絡をした。実はこの石碑は文字の刻印が浅く写真を撮っても文字を写し撮る事が難しく文字に墨を入れ浮きださせて撮る必要があった。区役所にこの事をお願いすると担当職員立会いのもとが条件となった。

区役所の指定する日時で了解をえた。指定された日時は、平成18年10月6日午前10時に現地集合であった。この日は朝から雨で文字の墨入れは難儀をした。石碑にビニールを被せ作業を行い不思議に写真撮影時は雨が止んだ。職員ともども今がシャッターチャンス急ぎ早に撮った。撮り終わるとまた雨が降り出した。「これは好古さんのご加護ですよ」雨が止んだのは、皆がそう思った。
画像は、東京都世田谷区池尻四丁目の石碑と千葉県習志野市の関係の画像です。


世田谷区役所の許可を受けて文字に墨をいれて文字を浮き出させて撮影。
世田谷区池尻の碑文表面
征清之役戦死者哀悼碑建設工ヲ竣ル茲ニ其ノ姓名ヲ勤シ永久後世ニ傳フ
明治二十九年六月三十日
騎兵第一聯隊長秋山好古謹記
秋山好古は、日清戦争で御国のため名誉な戦死をした15名の騎兵隊員の名前を石碑裏面に刻印し後世に伝えるために騎兵第一聨隊長秋山好古が直筆で記し好古自身が建立した。


墨入れする前の石碑の文字は殆ど見えない。先ず石碑の汚れを洗い落とし水分を取り除
墨を入れた。


晴天時に撮ると木漏れ日により画像のような状態となり、綺麗な画像を取ることは困難、この時は雨天であった。そして墨を入れ終わった時一時期雨が止み撮影し終わった時点でまた降雨となった。・・不思議な一瞬であった。この画像は事前調査をお願いした東京の知人が撮り送ってくれた画像である。


石碑裏面で、下記の事項が記載されている。
日清戦争戦騎兵隊の戦没者 世田谷区池尻の碑文裏面
陸軍騎兵少尉 山口毅夫
君資性謙譲ニシテ敏活頗ル支那語ニ通ス征清ノ役金州乃旅順ニ転戦シ常ニ勇徃奮進敵状地形ノ偵察ニ盡力シ我騎兵隊ノ活動ヲシテ極メテ容易ナラシメタリ旅順陥落ノ後普蘭店ニ派遣セラレ復洲方面ノ警戒ニ任ズルヤ疾病ヲ犯シ尚能ク激務ニ服シ遂ニ起ツ能ハサルニ及ビ帰朝シ明治二十八年二月十三日廣島陸軍豫備病院ニ於テ卒ス享年二十八歳

陸軍騎兵曹長     吉田四郎   明治二十八年二月八日於老爺廟
豫備陸軍騎兵一等軍曹 藤堂立    明治二十七年十一月十七日於龍口戦死
陸軍騎兵一等軍曹   渡邉武松   明治二十八年二月八日於二道河戦死
陸軍騎兵一等卒    西澤三十   明治二十八年二月二十四日太平山戦死
陸軍騎兵一等卒    根本由之助  明治二十八年二月八日於高刋戦死
陸軍騎兵一等卒    羽毛田安太郎 明治二十八年二月八日年於老爺廟戦死
陸軍騎兵一等卒    添田賢次郎  明治二十八年二月八日於二道河戦死
陸軍騎兵一等卒    内田與作   明治二十八年二月八日於二道河戦死
陸軍騎兵一等卒    新井斧三郎  明治二十七年十一月十九日於龍口戦
豫備陸軍騎兵一等卒  小野田勝三郎 明治二十七年十一月十九日於龍口戦
陸軍騎兵一等卒    飯尾金彌   明治二十七年十一月十八日於土城子
陸軍騎兵一等卒    芝章    明治二十八年二月二十二日聶家堡子戦死
豫備陸軍騎兵一等卒  加瀬音吉   明治二十七年十二月三十日於蘇家屯病死
陸軍騎兵一等卒 蕪木夘八 明治二十八年一月三十一日朱家旬子戦死
石碑裏面記載事項調査は、神奈川県平塚市の添田吉則氏である。

陸軍騎兵一等卒 添田賢次郎氏の父である保吉氏に、好古は、添田賢次郎隊員の事を「斥候の任務に服し蓋平の戦いに於いて勇ましく戦い、二道溝栄口に敵を迎え撃つも激戦の末名誉な戦死した。」と漢詩で表現して書き送った。保吉氏は、之を元に石碑を建立なされた。その石碑が、平成24年4月18日神奈川県平塚市のあることが判明した。

明治29年6月30日東京都世田谷区池尻に好古は後世に伝えるために石碑を建立「日清戦争で戦死した騎兵隊員の哀悼碑」その裏面に優秀で且つ勇敢に戦い戦死した15名の騎兵隊員の氏名を揮毫、その一人である騎兵一等卒添田賢次郎氏の名前も好古は忘れることなく揮毫していた。この事が今回この石碑が発見され、好古が哀悼の意を篭めて建立した思いが116年経過したいま実ったのである。・・「高が石碑、然れど石碑」である。今回の取材で特に痛感した。
平塚市の石碑は、2番目に古い貴重な石碑である。


神奈川県平塚市に建立されている陸軍騎兵一等卒 添田賢次郎氏の石碑。
平成24年5月23日取材撮影。


東京都世田谷区池尻四丁目石碑のある場所で、ここは騎兵第一聨隊の跡地で、そのご千葉県習志野市に移転する。


秋山好古が建立した石碑の横には大きな表忠碑がある。


石碑は画像のような鉄製の柵の中に保存されている。


東京世田谷池尻にあった騎兵第一聨隊は、千葉県習志野に移転した。
現在千葉県習志野騎兵隊の跡は、東邦大学、日本大学生産工学部、東邦大学中高等学校になっており、騎兵第一旅団司令部跡は、習志野市民プラザ大久保の施設が建設されている。
画像は、騎兵第一旅団司令部本部の模型で、製作は日本大学生産工学部の学生が造った。展示は、平成24年3月25日完成した「習志野市民プラザ大久保」に展示してある。


騎兵第一旅団第13第一聨隊時代(明治時代の建物・現東邦大学に現存)に創建された兵舎で東邦大学では、永久保存すことに決定した貴重な建造物。


その内部で、保存状態は非常に良い。・・昨年10月撮影。

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