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俳句の街松山の句碑巡り 11 中村草田男 中島町の句碑

2013年10月28日 | 伊予松山歴史散策

「一度訪ひ二度訪ふ波やきりぎりす」
愛媛県立松山北高等学校中島分校正門入り口右にある句碑。

句碑巡り6で、中村草田男の市内で唯一つの句碑、「夕桜城の石崖裾濃なる」で所在は、松山市東雲町、東雲公園内にあります。・・と紹介しましたが、もう一つの句碑が、松山市中島町(旧温泉郡中島町大浦)にある愛媛県立松山北高等学校中島分校正門入口右にあります。・・私は未だ伺ったことがないので是非一度行って句碑を見てみたい。中島には船で松山高浜港から海上約1時間40分掛かります。
この度、私の知人を介して中島分校の先生にお願いして写真を撮っていただきましたので紹介します。
この句は、昭和38年8月5日、中村草田男は帰省の余暇を旧友達と温泉郡中島町(現、松山市)で遊んだ。島では堀内町長大内分校長から非常な歓待を受け、この日中島町における草田男の一句であります。
中村草田男は、生前の文学碑を建てるべきではないという見解を持っており、その人自身が逝ってしまえば、世間は直ちにといっていいくらいに、その人のことを忘却するのがならわしである。若し、没後何年かを経過してもなお少数の人々が故人のことを追慕してやまない場合に、その人々の手によって真心を篭めて質実に建立されてこそはじめて文学碑・詩碑の意義が実現されるわけである・・中村草田男『子規、虚子、松山』みすず書房に記載されている。
草田男の生前に建てられたこの句碑は、 草田男唯一の生前句碑である。(昭和39年8月建立。)草田男の友人グループが、草田男に知らせると反対されるだろうからという理由で、当人に知らせないまま建立したもので、除幕式さえも草田男の出席を求めず実行したという事後承諾という形になった。草田男の句碑は「静かな島の、素朴な高校生達だけのいる校庭に建っている。以上のような事柄で草田男の句碑が少ないのでしょう。

註:中世の時代、瀬戸内海には村上水軍とは別に防予諸島で活躍した忽那水軍がいました。忽那氏は平安末期より中島(忽那島)を中心に活動し、鎌倉時代には島の御家人・地頭を勤めるようになりました。 南北朝時代には征西将軍・懐良(かねよし)親王を3年間中島にかくまい、吉野と九州の中継点として活躍しますが、戦国末期、伊予の守護、河野氏の滅亡とともに、忽那水軍も衰退の一途をたどったのでした。その本拠地が中島であります。




「一度訪ひ二度訪ふ波やきりぎりす」
愛媛県立松山北高等学校中島分校正門入り口右にある句碑。


県立松山北高等学校中島分校正門入り口右にある句碑の右側にある石碑で、碑文の判読は画像では困難ですが、草田男が中島に友人と訪れ、句を読みそれを句碑として建立した経緯が書かれているのではないでしょうか。
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