EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

新潟市&習志野市研修旅行紀行 7 習志野市大久保1

2012年11月14日 | 伊予松山歴史散策
10月31日次の研修地である習志野市大久保に向けて出発。
この日も好天に恵まれた一日であった。
京成上野駅発午前8時26分、成田空港行きの特急に乗り津田沼駅で普通に乗り換え大久保駅で下車した。

学園大久保商店街にある秋山好古顕彰碑の前で秋山好古の孫、秋山哲兒氏と、薬師寺住職・三橋秀紀氏、学園大久保商店街理事長・三橋正文氏、東邦大学附属高校教諭・山岸先生、商店街事務局長等々関係諸氏の出迎えを受けた。

先ず、学園大久保商店街資料館で三橋正文理事長の歓迎の言葉と、資料館の説明、そして平成21年5月17日に建立した秋山好古顕彰碑の建立経緯、軍郷大久保の歴史等々の説明を聞き騎兵第13連隊跡(現、東邦大学)、騎兵第14連隊跡(現、日本大学生

産工学部)、騎兵第一旅団司令部跡(現、習志野市 市民プラザ大久保)を見学し、陸上自衛隊第一空挺団&習志野駐屯地を見学、その後、秋山好古とその家族が生活した場所を見てJR津田沼駅から東京に出た。
今回最後の訪問地、青山霊園に眠る秋山好古の墓参をして羽田に向かった。

最後の訪問地の画像は2回に分けて掲載します。

画像は、10月31日撮影。

最後の訪問地の画像は2回に分けて掲載します。

画像は、10月31日撮影。


習志野市学園大久保商店街資料館前で歓迎


学園大久保商店街資料館で三橋理事長さんと東邦大学附属中高等学校山岸先生からの歓迎に言葉と資料館の説明を聞く


学園大久保商店街に平成21年5月17日に建立された秋山好古顕彰碑建立経緯の説明を聞き記念の一枚


騎兵第13連隊跡、現、東邦大学の正門


東邦大学内にある、騎兵第13連隊の説明をされる薬師寺三橋住職


騎兵第13連隊跡記念碑


騎兵第14連隊跡、現、日本大学生産工学部の正門で学部祭が開催中で正門が飾られていた


騎兵第14連隊の説明をされる薬師寺三橋住職


習志野市 市民プラザ大久保の隣にある騎兵第一旅団司令部跡の記念碑とその関係の記念碑


習志野騎兵旅団発祥の地の記念碑で一枚
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新潟市&習志野市研修旅行紀行 6 東京スカイツリー夜景観賞

2012年11月13日 | 伊予松山歴史散策
好天候に恵まれた越後新潟研修の旅も無事終え、10月30日午後2時54分新潟駅発Mxとき330号に乗車、北方文化博物館の佐藤さん、神田さんの見送りを受け新潟を後にした。
次の目的地は、千葉県習志野市である。

午後4時54分上野駅に到着、今夜の宿泊地は、明日訪問する習志野市大久保に向けて利便性のいい(京成上野駅に近い)ホテルに入り荷物を預け浅草に移動、吾妻橋からライトアップされた東京スカイツリーの観賞に出かけた。

ライトアップは「粋」であった。「粋」は5月23日開業翌日撮っていたので、今回は「雅」のライトアップされた写真を撮りたかったが残念。
吾妻橋から少し上流の東武伊勢崎線橋梁上手から初めてスカイツリーを見る研究員4人を連れて観賞、隅田川対岸の勝海舟の銅像をみてスカイツリータウンまで歩き、東京ソラマチで遅い夕食を取った。
この夜は天候がよくスカイツリーの左に満月に近い月が出ていた。

いよいよ明日(10月31日)が好古足跡を辿る最後の日程である。

画像は、10月31日撮影。


宿泊したJR上野駅に非常に近い某ホテル


JR上野駅前の「ああ上野駅」の記念碑


ああ上野駅の歌詞碑・・ここも研究員は初めて見る所


隅田川、浅草側から、10月30日好天夜空に満月に近い綺麗な月が出ていた
人物を潰しスカイツリーと月を強調して撮った


満月とスカイツリー、高速道路の街灯の灯が隅田川の川面に揺ら揺らと漂ういい形で撮れた・・手前の手すりが邪魔かも?


東武伊勢崎線隅田川橋梁と観光屋形船を入れて・・


墨田区役所前にある「勝海舟」の銅像前で
万延元年(1860)品川から出航する咸臨丸を見送る姿とか??


東京スカイツリータウン、北十間川対岸から、北十間川の水が水質浄化装置などの整備で非常に綺麗になっていた・・が少し汚水の匂いがした


おしなり橋から見たスカイツリー


東京スカイツリーを真下から
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新潟市&習志野市研修旅行紀行 5 新潟市・北方文化博物館新潟分館

2012年11月12日 | 伊予松山歴史散策
新発田市の国指定名勝「清水園」と日本100名城第31番指定の新発田城を見て最後の研修地である北方文化博物館新潟分館に向かった。

移動時間は、約50分バスの車窓から越後平野を見ながら、そして神田さんの案内を聞きながらバスの旅であった。

北方文化博物館新潟分館は、長岡在の清水常作が別宅として明治28年に建てたものであるが、同氏は出雲崎町尼瀬の西山油田の掘削により巨万の富を握り水力発電を始め各種事業を興した人物であったが不幸にも42歳で逝去され、その後明治末期第6代伊藤文吉が新潟別宅として購入し、増改築を行い北方文化博物館新潟分館とした。

ここを訪れる目的は、秋山好古の副官の一人であった山内保次が一時期過ごした屋方の見学であった。

秋山好古には優秀な副官が3名いた。
豊邊新作・建川美次・山内保次で3名とも新潟出身である。

豊邊新作は、長岡で文久3年5月に生まれ、昭和2年2月19日逝去、享年66歳。
明治13年陸軍士官学校入学、同15年卒業して騎兵少尉となり、第5代騎兵実施学校長、樺太守備司令官、騎兵第4旅団長を経て最後は中将となった。
秋山好古が最も信頼をした副官で、黒溝台の戦いでは、秋山隊配下の豊邊支隊長としてコサック騎兵隊の猛攻を決死の覚悟で凌ぎ、奉天会戦では敵弾が右足貫通を受けた時でも陸軍病院に行かずして戦った。
新作の父は、長岡藩家老、河井継之助と従兄弟同士である。

建川美次は、明治13年10月3日生まれ、昭和20年9月9日逝去、享年65歳。
山中峯太郎の冒険小説『敵中横断三百里』のモデルとなった人物で、好古の命令で建川挺進斥候隊長として6騎でロシヤ軍の動向情報を詳しく探りその活動日数は23日間1200Kmの斥候活動の情報で日本軍が優勢な戦いが出来た。
帰還日を過ぎても帰って来ない建川挺進斥候隊、好古は、敵地で戦死したかと心配していたが、建川斥候隊長以下6名全員帰還した。隊員の体は痩せ細り激務のあとが伺え好古は最大の労をねぎらったとある。
建川は、その後中ソ大使として日ソ中立条約に調印した。

山内保次は、明治14年7月16日生まれ、昭和50年11月10日逝去、享年94歳。
新潟中学・陸軍士官学校共に建川美次とは一年後輩で、陸軍士官学校14期生である。日露戦線では、秋山好古隊に属し、特に奉天会戦前好古の命令で斥候隊長として5騎を率い建川美次斥候隊よりも5日早く出発した。行程1000Km、情報内容は建川斥侯隊とほぼ同じ内容で奉天会戦に大きく貢献した。

また、山内保次は秋山好古騎馬像製作時に好古の騎乗姿のモデルになりその時のレプリカが東京の山内家に大切に保存されている。保次は馬の絵を描くのが巧かった。
なお、山内の息子の山内保武は、太平洋戦争中に栗林中将率いる第109師団後方参謀となり、硫黄島で戦死した。陸軍少佐(陸士47期)であった。

北方文化博物館新潟分館の離れにある山内保次が一時期過ごした屋方を、伊藤分館長さんから説明を受けた。
ここは、一般公開していない特別な場所でお茶のお接待を頂きながら貴重なお話を聞くことが出来た。
見学後、悲しい出来事があった横田めぐみさんが拉致された日本海海岸に行きめぐみさんが早期に元気で日本に帰られる事を祈願し新潟最後の好古足跡を辿る旅を終え東京に移動した。
今回好古の足跡を辿る研修の旅では、北方文化博物館第8代伊藤館長さん・佐藤室長さん・神田評議員さん、清水園、新潟分館の方々には大変お世話になりいい勉強が出来ました。
ありがとうございました。

画像は、10月30日撮影。


北方文化博物館新潟分館玄関:(新潟市中央区南浜通り2番町562番地)


山内保次が一時期過ごした屋方(北方文化博物館新潟分館の離れにある・未公開)


山内保次が一時期過ごした部屋一人で生活、時々必要に応じ奥様が来られていたそうだ・・住まわれた時期は、
戦前新潟地区司令官時代


北方文化博物館新潟分館の枯山水の庭園


秋山兄弟生誕地の秋山好古騎馬像で、この銅像は富山県出身の横江嘉純が製作した
嘉純は好古の馬上姿は見た事がなく、モデルになったのが山内保次である


山内保次は秋山好古の副官として信頼が厚く特に馬の絵を得意とした


北方文化博物館新潟分館見学の後、残り少ない貴重な時間を割いて見学・・萬代橋、新潟地震でもびくともしなかった橋


新潟県護国神社


新潟県護国神社境内に伊豫大洲藩(現在、愛媛県大洲市)船殉難者慰霊碑があった


新潟県護国神社の直ぐ傍にある日本海海岸、ここで横田めぐみさんが拉致された海岸
早く元気で日本に帰ることが出来ますようにと願った


新潟平野・信濃川・佐渡島も眺望出来る「朱鷺メッセ・31階建て」


朱鷺メッセ・31階展望室からの信濃川


「新潟ブールス」の歌詞に出てくる新潟駅・・画像は私が初めて秋山好古揮毫石碑の写真取材に行った時に撮影・・平成22年3月17日、小雨が降っていた
忘られなくて ひとりさまよえば  青い灯がゆれる 新潟駅よ
  愛した訳じゃ ないんだと  強がりいえば ああ…
  新潟は 新潟は 霧に更けてゆく 
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新潟市&習志野市研修旅行紀行 4 新発田市・清水園・新発田城跡

2012年11月11日 | 伊予松山歴史散策
念願の北方文化博物館見学も終えその夜は、博物館の宿泊施設「大呂菴」に泊まった。
夕食会では、伊藤文吉館長さんから日頃聞くことが出来ないいいお話をして頂いた。

明けて、10月30日午前9時北方文化博物館の皆さん達の見送りを受けバスで次の目的地である新発田市の清水園に向かった。今日も運転は、博物館の佐藤統括室長さんで、ガイド役は北方文化博物館評議員の神田さんの名ガイドがあった。

清水園には30分程で着いた。
清水園は、旧新発田藩下屋敷跡で現在は、北方文化博物館が管理している国指定名勝になっている。新発田藩は10万石でこの園一帯を、藩政時代清水谷と呼ばれ、下屋敷は「清水谷御殿」と称した。昭和21年北方文化博物館が管理することになり、ここを「清水園」と名づけた。
入口に、雅子妃殿下の父上誕生の地があった。

そして隣接して、天保13年(1842)に建てられた足軽長屋が現存、全国的にも例をみない遺構として昭和44年、国指定重要文化財になっている。

この後、新発田城跡と、堀部安兵衛の銅像を見て新潟市に向かった。

画像は、10月30日の撮影。・・この後は新潟市に移動する。


清水園入口に雅子妃殿下の御父上誕生の地があった


失礼して、雅子妃殿下の御父上誕生の前で


清水園の入口


清水園の説明をする佐藤統括室長(学芸員)


清水園では新人のガイドさんが案内してくれた・・新人のガイドさんは佐藤統括室長さんとも知らず案内をし、
後から佐藤統括室長だと分かり、ビックリ!!案内に間違いがなかったかしきりに問い質していた


回遊式の大名庭園「清水谷御殿の庭園と池」


国指定、足軽長屋の説明板


国指定、重要文化財の足軽長屋


新発田藩10万石の新発田城、櫓門・・国指定の重要文化財で現存する建造物はこの本丸表門のみである
日本100名城(31番)に選定されている


表門の内側、奥が本丸であるが、現在は陸上自衛隊新発田駐屯地となっていた


忠臣蔵で有名な堀部安兵衛の銅像・・私は堀部安兵衛が新発田藩出身とは知らなかった・・初代藩主・溝口秀勝の曾孫にあたるといわれる
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新潟市&習志野市研修旅行紀行 3 北方文化博物館

2012年11月10日 | 伊予松山歴史散策
秋山兄弟生誕地の研究員7名を引率して研修研鑽旅行(秋山好古足跡を辿る紀行)いよいよ本番の旅である。
10月29日松山空港第一便午前7時40分発羽田午前9時15分着予定は10分早く到着した。私は前日東京に来て羽田到着ロビーで研究員を待ち受けた。

これからが大変の移動、東京駅発上越新幹線Maxとき・10時12分発に乗車するため、各位には手荷物は預けず機内に持ち込め、モノレールの乗車券は前もって購入せよ、少し早足で歩くから着いて来るようにと指示、その甲斐あって10時12分の新潟行きに乗れた。

新潟市の日の入りは午後4時48分で晩秋の日暮れは早く、一時間でも早く北方文化博物館に行き見学させてあげたかったからだ。予定通り新潟駅に着き北方文化博物館の佐藤統括室長さん自らが運転をしてのバスが東口まで迎えに来てくれていた。

さて北方文化博物館とは、越後随一の豪農伊藤家の屋館で、戦後処理の為日本に進駐してきたGHQ新潟県担当司令官「ライト中尉」は伊藤家をGHQ新潟指令部の施設として接収するつもりで調査に来た。後日第7代伊藤文吉氏とライト中尉が、米国のペンシルべニア大学の先輩と後輩である事が分かった。・・この大学は先輩を敬う強い精神を受け継ぐ校風だそうだ。

大学の後輩ライト中尉は、先輩の家屋敷を接収しGHQの施設として土足で踏躙事は出来ないと感じ何とかいい方法で保存存続は無いかと考えた挙句、文化施設として残してあげようと思った。

ライト新潟県担当司令官は、連合国軍最高司令官総司令部長官・マッカーサー元帥にお願いして博物館としての開設をお願いし許可された。
「マッカーサー元帥は、公立では自由な展示が出来ないだろうから、私立としての開館がよい」・・と元帥は言った。・・戦後日本で初めて開設された由緒ある私立博物館の誕生であった。

これまでいろんな人々が北方文化博物館を訪れているが、中でも司馬遼太郎・柳宗悦・浜田庄司・バーナード・リーチ各氏は絶賛している。
北方文化博物館に隣接してある日枝神社境内に立派な秋山好古揮毫の「忠魂碑」が建立してある。今回はこの秋山好古揮毫記念碑の建立の経緯のお話を聞くことも訪問の一つの目的である。

画像は北方文化博物館関係で、10月29日・30日の撮影。


北方文化博物館の全容で「石碑」と記載している場所に秋山好古揮毫の石碑「忠魂碑」がある
博物館は、敷地が8,8000坪、建造物が1,200坪もある広大な施設である


北方文化博物館の正門


北方文化博物館の入口


第8代伊藤文吉館長さん自らの説明を伺った


100畳敷き座敷から庭園を見る・・素晴らしい


100畳敷き座敷・・この日(10月29日)台湾から大勢の観光者が来ていた


北方文化博物館には磁場が沢山あり、特にこの石から出る磁場が一番強いと磁場の権威者が発見した石、博物館職員
は全員元気で誰一人病気に掛かった者がいないと言われた・・その精か、伊藤館長さんの元気で、佐藤総括室長さん
も風邪引きにもなった事がないとの由


北方文化博物館に隣接してある、日枝神社境内に建立されている秋山好古揮毫の石碑「忠魂碑」建立の経緯を説明する、
北方文化博物館評議員の神田さん。
秋山好古が大正2年1月15日新潟県高田の第13師団長として僅か2ヶ月滞在した。沢海の若い兵士が日露戦争で
戦死、その兵士のために「忠魂碑」を建立にいたり当時の村長が好古師団長に揮毫依頼した。当時好古の階級は陸軍中将
であった。好古揮毫の石碑は日本海側ではじめて見つかり、また好古揮毫の石碑としては三番目に古い石碑である。・・
今でも石碑の前で毎年慰霊祭が行われている。


10月29日北方文化博物館訪問の記念として第8代伊藤館長さんとの記念写真
前列右から3人目が館長さん


北方文化博物館の中門


館内に展示してある古伊万里焼で、書画骨董品が沢山ある、開運なんでも鑑定団、古美術鑑定士・中島誠之助氏曰く、
価格のつけようがない名品があるとか??


北方文化博物館の玄関前庭に建立されている、「ライト中尉と第7代伊藤文吉」の記念碑


記念碑の裏面に経緯が記載されている


江戸時代この地「現 新潟市江南区沢海」に沢海藩が現存した。4代目藩主が伊豫松山藩初代藩主、加藤嘉明から
4代目の明英の弟の政親は沢海藩4代藩主として沢海の溝口家に養子入りをしている・・伊豫松山とも縁の地である。
画像は、沢海藩の説明板で城跡は現在阿賀野川河川敷となっている。
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