EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

新潟市&習志野市研修旅行紀行 最終9 好古墓参

2012年11月16日 | 伊予松山歴史散策
習志野市大久保の皆様に限られた時間内で最高の研修地として選定していただいた好古と関係の深かった場所を見て回り説明を受けた。
自衛隊からタクシーで津田沼駅に移動しながら、好古が薬園台の自宅から連隊の基地に通った道、秋山眞之も津田沼駅から母の住む宅を訪れた場所も案内頂き貴重な体験が出来た。・・今後秋山兄弟生誕地での奉仕活動に生かせる大きな知識の習得が出来た。

JR津田沼駅前のレストランで大久保商店街さん主催の昼食会にお招き頂いた。
大久保商店街役員の方々、習志野市商工会議所皆さん、市議会議員さんも参列、意義ある意見交換会の場を設定して頂いた三橋大久保商店街理事長さんにお礼の言葉を述べて午後2時02分発の総武快速で東京に移動した。

今回の秋山好古足跡を辿る研修の旅、最後の目的地である、東京青山霊園に眠る秋山好古の墓参である。
今回参加した秋山邸研究員各位は、未だ誰も墓参をしておらず是非とも行かなければならない場所であった。

註:秋山好古の信条
  質素にして清く正しく心豊かであれ
簡単明瞭・質素倹約・心は何時も大らかで、豊かに持ち、元気な間は働く事、そして幼少時の母のお教え「大人になったら、世の為、人の為、故郷の為に尽くす事の出来る人間になるように」の教え胸に秘めて、その通り生き抜いた好古です。
好古の尊敬する人物「福沢諭吉」
福沢諭吉の平等主義を心底信奉していて、誰に対しても平等公平な人であった。

14歳の時福沢諭吉の「学問のすすめ」を読みこれからの日本には、青少年の教育が必要、自分は教師になり教育者として世の為に尽くそうと志を抱き、16歳の時に大坂に発ち18歳まで代用教員を行い、一歳年齢を偽り大坂師範学校に入学、卒業後名古屋師範学校附属小学校教師として赴任するも、伊豫松山藩出身の名古屋師範学校、和久正辰教務官、名古屋鎮台の山本武官の強い勧めで(半強制的)陸軍士官学校に進み軍人の道を歩む事になる。

大正9年教育総監に、大正12年元帥に推薦されるもこれを辞退、大元帥(大正天皇)は驚き、翌13年大元帥は、特旨を以って官位従二位を与えた。
大正13年郷里松山から、現在北豫中学の校長が不在、名前だけでいいから出して頂きたいとの申し出があり、名前だけでなく、私でよければ校長を引き受けると大正13年3月から昭和5年3月まで校長を務めた。その間家族は東京に置き単身赴任し松山で生活をした。昭和5年11月4日72歳で逝去した。最後は、初心志した教師、もう一度教壇に立って一生を終えたいと考えていた矢先の出来事、故郷にご奉公が出来その人生を全うした。

このような秋山好古が過ごした生き方に感銘を受け秋山兄弟生誕地で奉仕活動をしているメンバーが今回、好古とご縁があります新潟と習志野を伺い見識を広めたく思っている者達の研修の旅無事終わった。


画像は、10月31日撮影。


六本木ヒルズ最上階から見た青山霊園で記載の所に墓所がある
平成17年1月24日私が初めて好古の墓参に行く前に撮った


秋山好古のお墓、好古は生前墓はいらぬと言って逝去したので家族は秋山家之墓石を造り家族と一緒に眠っている
墓石を大きく造りなおせとの声があるそうだが、生前の言葉を尊重し大きくしないと孫の哲兒さんは言われた


墓石の横に墓誌碑があり名前が刻まれている


墓参をした記念に、好古さんの好きだったお酒を供え、研究員の一人が般若心経を唱えお線香を焚き墓参を終えた・・孫の哲兒さんとはここで別れた


青山霊園の整備された道、この霊園には多くの著名人の墓がある
平成17年にはこんなに綺麗に整備されてなかったのだが!!


青山霊園に廣瀬武夫の墓所がありお参りした


千代田線乃木坂駅で降り、陸橋を渡り六本木ヒルズを見ながら青山霊園に・・この当たりから天候が変化・・雨が降りそうになった・・墓参が終わるまでは大丈夫だった


好古の墓参をして羽田空港に移動、モノレールからスカイツリーが見えた


好古の墓参をして羽田空港に移動、モノレールに乗ってから雨が降りだした
三日間好天に恵まれいい研修旅行が出来た・・天候は好古さんが護ってくれた


搭乗手続きをして松山行きの搭乗口に向かった
羽田発午後7時20分の飛行機に乗り全員無事松山に帰った・・ご苦労様でした
明日から秋山兄弟生誕地で気持ちを新たに活動して下さい!!



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