EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

新潟市&習志野市研修旅行紀行 3 北方文化博物館

2012年11月10日 | 伊予松山歴史散策
秋山兄弟生誕地の研究員7名を引率して研修研鑽旅行(秋山好古足跡を辿る紀行)いよいよ本番の旅である。
10月29日松山空港第一便午前7時40分発羽田午前9時15分着予定は10分早く到着した。私は前日東京に来て羽田到着ロビーで研究員を待ち受けた。

これからが大変の移動、東京駅発上越新幹線Maxとき・10時12分発に乗車するため、各位には手荷物は預けず機内に持ち込め、モノレールの乗車券は前もって購入せよ、少し早足で歩くから着いて来るようにと指示、その甲斐あって10時12分の新潟行きに乗れた。

新潟市の日の入りは午後4時48分で晩秋の日暮れは早く、一時間でも早く北方文化博物館に行き見学させてあげたかったからだ。予定通り新潟駅に着き北方文化博物館の佐藤統括室長さん自らが運転をしてのバスが東口まで迎えに来てくれていた。

さて北方文化博物館とは、越後随一の豪農伊藤家の屋館で、戦後処理の為日本に進駐してきたGHQ新潟県担当司令官「ライト中尉」は伊藤家をGHQ新潟指令部の施設として接収するつもりで調査に来た。後日第7代伊藤文吉氏とライト中尉が、米国のペンシルべニア大学の先輩と後輩である事が分かった。・・この大学は先輩を敬う強い精神を受け継ぐ校風だそうだ。

大学の後輩ライト中尉は、先輩の家屋敷を接収しGHQの施設として土足で踏躙事は出来ないと感じ何とかいい方法で保存存続は無いかと考えた挙句、文化施設として残してあげようと思った。

ライト新潟県担当司令官は、連合国軍最高司令官総司令部長官・マッカーサー元帥にお願いして博物館としての開設をお願いし許可された。
「マッカーサー元帥は、公立では自由な展示が出来ないだろうから、私立としての開館がよい」・・と元帥は言った。・・戦後日本で初めて開設された由緒ある私立博物館の誕生であった。

これまでいろんな人々が北方文化博物館を訪れているが、中でも司馬遼太郎・柳宗悦・浜田庄司・バーナード・リーチ各氏は絶賛している。
北方文化博物館に隣接してある日枝神社境内に立派な秋山好古揮毫の「忠魂碑」が建立してある。今回はこの秋山好古揮毫記念碑の建立の経緯のお話を聞くことも訪問の一つの目的である。

画像は北方文化博物館関係で、10月29日・30日の撮影。


北方文化博物館の全容で「石碑」と記載している場所に秋山好古揮毫の石碑「忠魂碑」がある
博物館は、敷地が8,8000坪、建造物が1,200坪もある広大な施設である


北方文化博物館の正門


北方文化博物館の入口


第8代伊藤文吉館長さん自らの説明を伺った


100畳敷き座敷から庭園を見る・・素晴らしい


100畳敷き座敷・・この日(10月29日)台湾から大勢の観光者が来ていた


北方文化博物館には磁場が沢山あり、特にこの石から出る磁場が一番強いと磁場の権威者が発見した石、博物館職員
は全員元気で誰一人病気に掛かった者がいないと言われた・・その精か、伊藤館長さんの元気で、佐藤総括室長さん
も風邪引きにもなった事がないとの由


北方文化博物館に隣接してある、日枝神社境内に建立されている秋山好古揮毫の石碑「忠魂碑」建立の経緯を説明する、
北方文化博物館評議員の神田さん。
秋山好古が大正2年1月15日新潟県高田の第13師団長として僅か2ヶ月滞在した。沢海の若い兵士が日露戦争で
戦死、その兵士のために「忠魂碑」を建立にいたり当時の村長が好古師団長に揮毫依頼した。当時好古の階級は陸軍中将
であった。好古揮毫の石碑は日本海側ではじめて見つかり、また好古揮毫の石碑としては三番目に古い石碑である。・・
今でも石碑の前で毎年慰霊祭が行われている。


10月29日北方文化博物館訪問の記念として第8代伊藤館長さんとの記念写真
前列右から3人目が館長さん


北方文化博物館の中門


館内に展示してある古伊万里焼で、書画骨董品が沢山ある、開運なんでも鑑定団、古美術鑑定士・中島誠之助氏曰く、
価格のつけようがない名品があるとか??


北方文化博物館の玄関前庭に建立されている、「ライト中尉と第7代伊藤文吉」の記念碑


記念碑の裏面に経緯が記載されている


江戸時代この地「現 新潟市江南区沢海」に沢海藩が現存した。4代目藩主が伊豫松山藩初代藩主、加藤嘉明から
4代目の明英の弟の政親は沢海藩4代藩主として沢海の溝口家に養子入りをしている・・伊豫松山とも縁の地である。
画像は、沢海藩の説明板で城跡は現在阿賀野川河川敷となっている。
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