EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

石手川の木々が紅葉

2012年11月19日 | 伊予松山歴史散策
今日所用で町に出た。松山のお城下である。昭和30年代まではお城下に行って来ると言い着る物も余所行き姿で出かけたものである。

最近は何処にいくにしても普段着、ラフな格好で何処にでも出かける時代である。良いのか、悪いのか??
何時も渡る石手川に掛かる、中村橋を渡り城下に入る。

石手川の堤防に植栽されている木々の紅葉が綺麗であったので撮ってみた。


何時も渡る「中村橋」からの石手川、伊豫松山城の外堀の役目をした川である
両側の堤防に植えられた木々が綺麗に紅葉していた


そろそろ落葉しそうさ染井吉野


これも染井吉野


紅葉も


青空をバックに銀杏が綺麗な黄色に




センダの木かも??沢山の実をつけていた



平成19年5月松山市東石井に「伊丹十三記念館」が開館、館長は妻で女優の宮本信子さん


帰りに「伊丹十三記念館」の前を通ると入口の木が真っ赤に紅葉していた
記念館の外観は真っ黒の板張り仕上げで黒に赤がよく映えて見えた
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小雨の伊豫松山城本丸

2012年11月18日 | 伊予松山歴史散策
昨日午後松山城当番で登城した。
一昨日(16日)は快晴無風の絶好の行楽日和であったが、
昨日は一転して特に午前中は風を伴い激しい風雨で松山城を観光に来られた団体さん達は観光をあきらめて帰られた団体さんもあった。

午後は雨も小雨となり落ち着いた天候に回復大勢の県外から来られたお城好きな方も伊豫松山城本丸を堪能され、一部の方からは、非常に見応えのある城で来てよかったとのお言葉を頂いた。

私がご案内したのは、三重県津市・大分県大分市・大阪市のご夫婦三組の皆さんで、特に津市から来られたご夫婦、奥さんが松山城のお勧めの撮影ポイントをとの事で私の独断と偏見でご案内した。

画像は昨日(16日)小雨の中の伊豫松山城本丸の様子です。


今日は雨天の為リフトは運休、ロープウエーで登城


ロープウエー山頂駅舎にある売店


ロープウエー山頂駅舎からいよいよ本丸に登城、本丸まで10分、本壇天守まで15分の道程・・先ず目に入るのが本丸で一番高い石垣16mmある


巽櫓下で先日からの悪天候で沢山の落ち葉がある


一番最初に現れる城門「戸無門・重要文化財」


本丸で一番大きな筒井門から紅葉した染井吉野が見える


太鼓門続き塀から見た天守


アップで、松の枝と紅葉した紅葉をいれて


雨も止み雲の間から木漏れ日が瀬戸内海を照らす・・下に見える広場は三之丸


小天守した、紅葉した染井吉野


紫竹門続き塀に沿って落ち葉が散っている


本壇、南隅櫓と続き塀の上に紅葉した染井吉野、一番奥に乾櫓を望む


伊豫松山城天守で現存12天守のなかで一番新しい江戸末期、安政元年の創建


天守を護る重要な門「仕切門」と続き塀の一部を望む、松山城で一番長い続き塀があり藩政時代の続き塀と、戦後復元された続き塀を見ることが出来る必見の場所・・城郭建造物に興味のある方には
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東京ヤクルトスワローズ、松山秋季キャンプ

2012年11月17日 | 伊予松山歴史散策
この所松山の天候は不順で一昨日は雷を伴う風雨で大荒れの天候であったが、昨日(11月16日)は打って変わって好天となった。
いま松山で11月21日まで坊ちゃん球場で東京ヤクルトスワローズが秋季キャンプを実施している。カメラを持って練習を見に行った。

昨年で東京ヤクルトスワローズの松山キャンプは期限切れであったが、引き続き3年間松山でキャンプを行う事に松山市と調印した。
今秋の松山でキャンプ参加のコーチ、選手一覧は画像で見て下さい。

参加選手は若手選手と小川監督、池山コーチ、荒木投手コーチ宮本選手がコーチ役として来ている。知っている選手は畠山選手背番号33番だけで他の選手は知らない選手ばかりだった。

来季優勝を目標にしっかりと松山で練習をして頑張って欲しい。来年5月松山で阪神タイガースと三連戦が計画されている。頑張れ東京ヤクルトスワローズ!!

今日11月17日(土)は早朝から雨である・・松山は!!


秋季松山キャンプ参加コーチ&選手一覧


歓迎をする東京ヤクルトスワローズ松山協力会一覧


球場正面に、歓迎YS・東京ヤクルトスワローズ秋季キャンプと大きく掲示してある。


特殊な形の外観・・松山坊ちゃん球場


松山坊ちゃん球場内部


一人の投手と2台の打撃練習機械(ピッチングマシン)で打撃練習


打撃練習終了した選手にアドバイスをする小川監督


打撃練習の総指揮官:池山コーチ


荒木投手コーチ、若手投手の守備練習


宮本選手、今回はコーチ役でキャンプに・・シートノックを受ける選手の為グランド整備をしていた


今年も若手の中に混じって松山で練習をする畠山選手・・この人が頑張らないとヤクルトは勝てないよ


私が見た中で各コーチから厳しい練習を課せられていた西田捕手背番号30番・・画像は厳しいノックを受けていた・・期待されているのだろう!!頑張れ


来年対阪神タイガース戦が松山で開催、5月10.11・12日三連戦のチラシ
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新潟市&習志野市研修旅行紀行 最終9 好古墓参

2012年11月16日 | 伊予松山歴史散策
習志野市大久保の皆様に限られた時間内で最高の研修地として選定していただいた好古と関係の深かった場所を見て回り説明を受けた。
自衛隊からタクシーで津田沼駅に移動しながら、好古が薬園台の自宅から連隊の基地に通った道、秋山眞之も津田沼駅から母の住む宅を訪れた場所も案内頂き貴重な体験が出来た。・・今後秋山兄弟生誕地での奉仕活動に生かせる大きな知識の習得が出来た。

JR津田沼駅前のレストランで大久保商店街さん主催の昼食会にお招き頂いた。
大久保商店街役員の方々、習志野市商工会議所皆さん、市議会議員さんも参列、意義ある意見交換会の場を設定して頂いた三橋大久保商店街理事長さんにお礼の言葉を述べて午後2時02分発の総武快速で東京に移動した。

今回の秋山好古足跡を辿る研修の旅、最後の目的地である、東京青山霊園に眠る秋山好古の墓参である。
今回参加した秋山邸研究員各位は、未だ誰も墓参をしておらず是非とも行かなければならない場所であった。

註:秋山好古の信条
  質素にして清く正しく心豊かであれ
簡単明瞭・質素倹約・心は何時も大らかで、豊かに持ち、元気な間は働く事、そして幼少時の母のお教え「大人になったら、世の為、人の為、故郷の為に尽くす事の出来る人間になるように」の教え胸に秘めて、その通り生き抜いた好古です。
好古の尊敬する人物「福沢諭吉」
福沢諭吉の平等主義を心底信奉していて、誰に対しても平等公平な人であった。

14歳の時福沢諭吉の「学問のすすめ」を読みこれからの日本には、青少年の教育が必要、自分は教師になり教育者として世の為に尽くそうと志を抱き、16歳の時に大坂に発ち18歳まで代用教員を行い、一歳年齢を偽り大坂師範学校に入学、卒業後名古屋師範学校附属小学校教師として赴任するも、伊豫松山藩出身の名古屋師範学校、和久正辰教務官、名古屋鎮台の山本武官の強い勧めで(半強制的)陸軍士官学校に進み軍人の道を歩む事になる。

大正9年教育総監に、大正12年元帥に推薦されるもこれを辞退、大元帥(大正天皇)は驚き、翌13年大元帥は、特旨を以って官位従二位を与えた。
大正13年郷里松山から、現在北豫中学の校長が不在、名前だけでいいから出して頂きたいとの申し出があり、名前だけでなく、私でよければ校長を引き受けると大正13年3月から昭和5年3月まで校長を務めた。その間家族は東京に置き単身赴任し松山で生活をした。昭和5年11月4日72歳で逝去した。最後は、初心志した教師、もう一度教壇に立って一生を終えたいと考えていた矢先の出来事、故郷にご奉公が出来その人生を全うした。

このような秋山好古が過ごした生き方に感銘を受け秋山兄弟生誕地で奉仕活動をしているメンバーが今回、好古とご縁があります新潟と習志野を伺い見識を広めたく思っている者達の研修の旅無事終わった。


画像は、10月31日撮影。


六本木ヒルズ最上階から見た青山霊園で記載の所に墓所がある
平成17年1月24日私が初めて好古の墓参に行く前に撮った


秋山好古のお墓、好古は生前墓はいらぬと言って逝去したので家族は秋山家之墓石を造り家族と一緒に眠っている
墓石を大きく造りなおせとの声があるそうだが、生前の言葉を尊重し大きくしないと孫の哲兒さんは言われた


墓石の横に墓誌碑があり名前が刻まれている


墓参をした記念に、好古さんの好きだったお酒を供え、研究員の一人が般若心経を唱えお線香を焚き墓参を終えた・・孫の哲兒さんとはここで別れた


青山霊園の整備された道、この霊園には多くの著名人の墓がある
平成17年にはこんなに綺麗に整備されてなかったのだが!!


青山霊園に廣瀬武夫の墓所がありお参りした


千代田線乃木坂駅で降り、陸橋を渡り六本木ヒルズを見ながら青山霊園に・・この当たりから天候が変化・・雨が降りそうになった・・墓参が終わるまでは大丈夫だった


好古の墓参をして羽田空港に移動、モノレールからスカイツリーが見えた


好古の墓参をして羽田空港に移動、モノレールに乗ってから雨が降りだした
三日間好天に恵まれいい研修旅行が出来た・・天候は好古さんが護ってくれた


搭乗手続きをして松山行きの搭乗口に向かった
羽田発午後7時20分の飛行機に乗り全員無事松山に帰った・・ご苦労様でした
明日から秋山兄弟生誕地で気持ちを新たに活動して下さい!!



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新潟市&習志野市研修旅行紀行 8 習志野市大久保 2

2012年11月15日 | 伊予松山歴史散策
秋山好古は、日露戦争会戦が始まると陸軍騎兵隊の総指揮官として習志野から出征し、凱旋した地で好古の家族も生活、そして母貞が逝去した場所、伊豫松山とは非常に縁の深い地である。

大久保の騎兵連隊跡地、騎兵第一旅団跡地等々の現地に行き研鑽した後タクシーで陸上自衛隊第一空艇団内にある秋山好古の絶筆となった好古揮毫石碑「軍馬慰霊之碑」と「御馬見所・現 空艇館」を見学して習志野最後の研修を終えた。

自衛隊内の説明は今野広報担当官から伺った。
今回は秋山好古生誕地で活動している研究員と好古の孫も参加しており特に詳しい親切な説明をして頂いた。

註1:御馬見所・現 空艇館とは
  大元帥(明治天皇)が晩年お身体の事を考え明治44年東京目黒の騎兵学校内に建設された。天皇は、騎兵隊の演習や騎兵学校の卒業式には必ず出席された。
騎兵学校が大正5年習志野に移転した際習志野のこの地に移築され、昭和37年に「空艇館」と改名され現在に至っている。

註2:習志野の地名由来
明治6年4月29日大和田原(現在の千葉県習志野)で陸軍大将西郷隆盛の指揮下で近衛兵の大演習が行われた。演習の内容は今までに無いきびきびとした素晴らしい大演習を観閲された天皇は西郷に今日の指揮は誰が行っているかと問われ、指揮は、少将の篠原国幹ですと言われると、そうですかこれからも「篠原に習え」が「習篠原→習志野」現在の習志野の地名由来であると言われている。

画像は、10月31日撮影。


陸上自衛隊第一空艇団正面玄関で・・中の施設を写さない事を条件で撮影


陸上自衛隊習志野駐屯地正面玄関で・・中の施設を写さない事を条件で撮影


陸上自衛隊第一空艇団、御馬見所前にある秋山好古揮毫の「軍馬慰霊之碑」
揮毫は昭和5年10月5日の筆で絶筆となった。昭和11年11月1日刊行された伝記「秋山好古」の背文字はその揮毫署名を写したものである。


御馬見所(現 空艇館)正面


御馬見所(現 空艇館)正面にある説明板


御馬見所(現 空艇館)二階のバルコニー内部でここから明治天皇が騎兵隊の訓練等々を観閲された場所


御馬見所(現 空艇館)二階に掲示されている歴代の騎兵実施学校長の写真で秋山好古は第2代騎兵実施学校長を務め、好古が一番信頼をした豊邊新作は第5代校長を務めた


明治29年8月15日に第2代目騎兵実施学校長を拝命時の秋山好古
階級は陸軍中佐、38歳の時であった


第5代目騎兵実施学校長を務めた時の豊邊新作・・好古が最も信頼をしていた副官


歴代の騎兵実施学校長の写真横に西中尉の絵が掲げてある


御馬見所(現 空艇館)内は戦前戦後のいろんな資料が展示してあった
私は今回二度目で、平成17年9月11日に行った時より展示内容が充実していた
外観も改修され綺麗になっていた


明治36年6月に東京四谷区西信濃町から習志野薬園台に移転した当時の写真
下の写真、中央が好古のおっ母さん「貞さん」その右が好古の奥さん「多美さん」
軍人に抱かれているのが長男「信好さん」・・明治39年3月まで生活した
当時は、千葉県千葉軍二宮村薬園臺18番地であった


明治36年当時住んでいた好古の住宅があった所で現在は、洋服の青山(画像のよう)になっていた
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