神奈川県平塚市広川にその取材紀行
5月21日金環部分日食を撮影してから直ぐに石碑取材のため松山を出発した。
今回はJRで移動した。・・そして23日平塚市に取材・・以下の通り。
秋山好古揮毫の石碑が新たに発見された。
所在地は、神奈川県平塚市広川である。
先月18日に遠路平塚市から添田敬子様が石碑の拓本他資料持参で秋山兄弟生誕地にお越しになられた。
石碑の建立は、明治27年7月から同28年3月に掛けて行われた日本と清国との戦争に騎兵隊員として従軍し名誉な戦死をされた添田賢次郎騎兵一等卒のため、実父の添田保吉さんが添田家の為後世に伝えたく上官であった秋山好古に揮毫を依頼し石碑を建立した。
好古は、これに応じ名誉な戦死をした優秀な騎兵隊員であった添田賢次郎騎兵隊員に対して心から哀悼の意を最高の漢詩で撰文した。
実父の保吉さんは撰文を添田家のすぐ近くにある神社に許可を得て石碑を建立した。
添田賢次郎さんは、保吉さんの長男で添田家嫡男、跡取り息子を亡くした悲しみは大変であったと思う。
現在、好古揮毫の石碑は全国に49基発見されているが、名誉な戦死をした優秀な騎兵隊員に対して漢詩で撰文した石碑は2基のみで貴重な石碑である。
なお1基は千葉県鎌ヶ谷市の道野辺神社にあるが、石碑は三つに折れ神社境内奥深い場所に18年間も眠っている。早く日の目を見る場所に再建立して頂きたく昨年6月宮司さんにお願いに伺った。
よって現在建立されている石碑は平塚市の石碑のみである。
平成18年10月6日に東京都世田谷区にある「日清戦争で戦死された騎兵隊員に哀悼の意を篭めて建立した」石碑を私が取材した。
その石碑裏面に14名の戦死者の名前を好古は直筆で刻印している。
この度、私に添田敬子さんから世田谷の石碑に「添田賢次郎」の名前があるか照会があった。裏面写真を撮った中にありました。好古は忘れることなく名前を書いていた。
世田谷の石碑は、好古が建立者で戦死した隊員の事を後世に伝えたく直筆で名前を揮毫し好古自身が石碑を建立した。
建立年月日は、明治29年6月30日で当時好古は、騎兵第一連隊長であった。
それから月日は流れ58年後に世田谷の石碑と平塚市の石碑の結びつきが判明した。
添田敬子夫妻は早速に世田谷区の石碑をお参りするそうです。
「高が石碑然れど石碑」好古が心を篭めて哀悼の意を揮毫した石碑がいま実を結んだのである。・・後世に伝わったその証しだ
明治31年、添田賢次郎さんの実父から揮毫依頼を受けた秋山好古が賢次郎騎兵隊員の為に漢詩で撰文し揮毫した。その全容を石碑として同年10月実父 保吉さんが建立した。
好古は、「義 烈」と揮毫した
石碑上部の揮毫でこれを「篆額てんがくまたは、篆書てんしょ」と呼ぶ
石碑などの上部に篆書体で書かれた題字のこと
揮毫した秋山好古騎兵大佐、39歳の時
秋山好古が哀悼の意を漢詩で撰文した全文
好古が漢詩で撰文した碑文の読み
石碑裏面、明治31年吉日 實父 添田保吉建立 石工 多田新太郎と刻印
神奈川県平塚市広川にある、広川八幡神社正面、右奥に石碑を見る事が出来る
広川八幡神社境内、昔は境内で村祭りには青年団が芝居をしたそうです
現在添田家は3人兄弟で、23日私を皆さんが出迎えて頂いた
当日は大変お世話になりました・・取材後昼食をご馳走になり、小田原市の一夜城跡を案内して頂きました・・一夜城跡もブログに掲載します・・見て下さい
石碑はご覧の通り少し左に傾いている・・これは石碑右にある大きな樹の根っこが石碑の台座を持ち上げているためです・・今に内に手直ししなくては・・
5月21日金環部分日食を撮影してから直ぐに石碑取材のため松山を出発した。
今回はJRで移動した。・・そして23日平塚市に取材・・以下の通り。
秋山好古揮毫の石碑が新たに発見された。
所在地は、神奈川県平塚市広川である。
先月18日に遠路平塚市から添田敬子様が石碑の拓本他資料持参で秋山兄弟生誕地にお越しになられた。
石碑の建立は、明治27年7月から同28年3月に掛けて行われた日本と清国との戦争に騎兵隊員として従軍し名誉な戦死をされた添田賢次郎騎兵一等卒のため、実父の添田保吉さんが添田家の為後世に伝えたく上官であった秋山好古に揮毫を依頼し石碑を建立した。
好古は、これに応じ名誉な戦死をした優秀な騎兵隊員であった添田賢次郎騎兵隊員に対して心から哀悼の意を最高の漢詩で撰文した。
実父の保吉さんは撰文を添田家のすぐ近くにある神社に許可を得て石碑を建立した。
添田賢次郎さんは、保吉さんの長男で添田家嫡男、跡取り息子を亡くした悲しみは大変であったと思う。
現在、好古揮毫の石碑は全国に49基発見されているが、名誉な戦死をした優秀な騎兵隊員に対して漢詩で撰文した石碑は2基のみで貴重な石碑である。
なお1基は千葉県鎌ヶ谷市の道野辺神社にあるが、石碑は三つに折れ神社境内奥深い場所に18年間も眠っている。早く日の目を見る場所に再建立して頂きたく昨年6月宮司さんにお願いに伺った。
よって現在建立されている石碑は平塚市の石碑のみである。
平成18年10月6日に東京都世田谷区にある「日清戦争で戦死された騎兵隊員に哀悼の意を篭めて建立した」石碑を私が取材した。
その石碑裏面に14名の戦死者の名前を好古は直筆で刻印している。
この度、私に添田敬子さんから世田谷の石碑に「添田賢次郎」の名前があるか照会があった。裏面写真を撮った中にありました。好古は忘れることなく名前を書いていた。
世田谷の石碑は、好古が建立者で戦死した隊員の事を後世に伝えたく直筆で名前を揮毫し好古自身が石碑を建立した。
建立年月日は、明治29年6月30日で当時好古は、騎兵第一連隊長であった。
それから月日は流れ58年後に世田谷の石碑と平塚市の石碑の結びつきが判明した。
添田敬子夫妻は早速に世田谷区の石碑をお参りするそうです。
「高が石碑然れど石碑」好古が心を篭めて哀悼の意を揮毫した石碑がいま実を結んだのである。・・後世に伝わったその証しだ
明治31年、添田賢次郎さんの実父から揮毫依頼を受けた秋山好古が賢次郎騎兵隊員の為に漢詩で撰文し揮毫した。その全容を石碑として同年10月実父 保吉さんが建立した。
好古は、「義 烈」と揮毫した
石碑上部の揮毫でこれを「篆額てんがくまたは、篆書てんしょ」と呼ぶ
石碑などの上部に篆書体で書かれた題字のこと
揮毫した秋山好古騎兵大佐、39歳の時
秋山好古が哀悼の意を漢詩で撰文した全文
好古が漢詩で撰文した碑文の読み
石碑裏面、明治31年吉日 實父 添田保吉建立 石工 多田新太郎と刻印
神奈川県平塚市広川にある、広川八幡神社正面、右奥に石碑を見る事が出来る
広川八幡神社境内、昔は境内で村祭りには青年団が芝居をしたそうです
現在添田家は3人兄弟で、23日私を皆さんが出迎えて頂いた
当日は大変お世話になりました・・取材後昼食をご馳走になり、小田原市の一夜城跡を案内して頂きました・・一夜城跡もブログに掲載します・・見て下さい
石碑はご覧の通り少し左に傾いている・・これは石碑右にある大きな樹の根っこが石碑の台座を持ち上げているためです・・今に内に手直ししなくては・・
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