EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

続・青函連絡船写真で見る「羊蹄丸」公開中

2012年05月12日 | 伊予松山歴史散策
北海道の開拓は明治3年(1870)に始まり明治6年(1873)屯田兵制を開始本格的になった。勉強不足で把握してないが「北海道」の名称は何時命名されたのか??
青函連絡航路は、明治41年に運航開始された北海道と本州を結ぶ大動脈として活躍してきた。長い年月の間航時に発生した幾多の事故があり尊い命が失われた。そして青函トンネル建設にと発展、数年後には新幹線が整備される。

一昨日(5月10日)新居浜市で最後の一般公開を開催している「羊蹄丸Ⅱ」を見学、2Fの展示場で「羊蹄丸」の写真展示があったので一部写真を撮らせてもらった。・・付随して宇高連絡線(岡山県宇野港―香川県高松港)の写真展もあった。宇高連絡線でも昭和30年(1955)5月11日紫雲丸事故が発生し瀬戸大橋建設の機運を一掃高めた。
57年前西条市立庄内小学校修学旅行生徒、引率教師、保護者30名が犠牲になった。毎年5月11日に追悼式が行われている。

註:画像説明に付いては、間違った説明を記載している箇所もあると思います。ご了承下さい。・・詳しく無い者ですので


愛媛県新居浜市、新居浜東港黒島埠頭で最後の一般公開となる「羊蹄丸Ⅱ」6月10日(日)まで公開


新居浜東港黒島埠頭で公開されている「羊蹄丸Ⅱ」に横断幕と煙突に「JNR」日本国有鉄道の英語表記が残してある


羊蹄丸Ⅱ写真展のポスター


青森港―函館港を結ぶ青函連絡船航路図 113kmを3時間50分で結んでいた・どちらが上り航路図でどの航路が下りか?


何時頃の羊蹄丸だろうか?煙突が二つ黒い煙を吐いているからディーゼルエンジンになる前・船体色も黒系統、当時は全船黒系統で船の見分けが困難との事で、各船ごとに船体の色が違っていたとか
羊蹄丸はエンジとクリ-ムに塗装、その以前は緑系統だったそうだ・・画像は緑系時代?それとも黒系統の時か?


青森港に接岸中の羊蹄丸


乗船する女性・・北海道に行くのか?帰るのか?何故か哀愁を感じる画像


函館港に入港する羊蹄丸Ⅱ、煙突も改良され原動力はディーゼルエンジンになっている・洞爺丸転覆事故以降にディーゼルエンジンになった


冬季の出航、海は静かのようだ・・乗務員も乗船客も安心だろう


吹雪の中出航する時も度々「津軽海峡冬景色」そのもの
昭和52年大ヒットした歌謡曲:「上野発の夜行列車 おりた時から青森駅は 雪の中 北へ帰る人の群れは 誰も無口で海鳴りだけを きいている私もひとり 連絡船に乗りこごえそうな鴎 見つめ泣いていましたああ 津軽海峡 冬景色 ・・」


こんな荒波の中を航海することも度々・津軽海峡は普段でも潮流の流れが激しい海峡での操船が大変らしい・・前後にかなり揺れている、緊張の連続


波浪の中航海する羊蹄丸左右に揺れている・・乗客も命掛けの旅、港に着岸するまではひやひやもの


羊蹄丸、後方開口部、ここから車両を積み込む設備だが洞爺丸事故では他の連絡船も沈没したが車両を積んでなかった連絡船は沈没を免れた・・車両を積んでいると船体が下がり開口部から浸水し機関部が不能になる


開口部から浸水し機関部が不能になる防止策として密閉にする改装中


開口部から浸水し機関部が不能になる防止策として密閉にする改装完了後の羊蹄丸


昭和63年3月13日函館17時00分離岸・青森20時55分接岸上り22便にて最後の航海多くの青函連絡線を愛した皆さんが乗船し感謝の念と苦労を労った


最後の航海を終え船体を改良し次の使命である展示船としての船出、台船で目的地に科学館に行っている時か?何故か船体色がエンジではない!!
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

青函連絡船「羊蹄丸」愛媛・新居浜市で最後の公開

2012年05月10日 | 伊予松山歴史散策
青森―函館間の鉄道連絡線として活躍してきた青函連絡船の一つ「羊蹄丸Ⅱ」が東京から曳航され愛媛県新居浜市に来た。
新居浜市制75周年、国立新居浜工業高等専門学校創立50周年の記念事業として4月30日から6月10日まで一般公開される。

青函連絡船は明治41年に運航され昭和63年に終航となった。
沢山の連絡船が北海道と本州の経済を支えて来た。昭和29年(1954)9月26日台風15号により起こった洞爺丸の事故は日本最大の海難事故であった。この時他の連絡線も沈没したが、初代羊蹄丸は、無事であった。

初代羊蹄丸は昭和23年5月就航・同40年6月終航。2代目は昭和40年8月就航、同60年3月13日終航、その後各地で保存展示されて来たが今回新居浜市で公開後解体されることとなった。・・これが羊蹄丸最後の見納めとなる。
青函連絡船の運航は低気圧で海の波浪、冬季時の波のうねり等々津軽海峡の航海は大変な事であっただろう。・・ご苦労様です。

私も是非見ておきたく今日(5月10日)見学に行って来た。
羊蹄丸Ⅱは、総トン数:8,311,48トン 
        全  町:  132,00m
        型  幅:   17,90m
        深  さ:    7,20m
        機  関:ディーゼルエンジン
        最大速力:21,16ノット「39km」・・
船外塗装は傷んでいたが内部はキチンと整然と綺麗に手入れが行き届き思ったよりも綺麗に保存されていた。

新居浜東港黒島埠頭で公開されている「羊蹄丸」


新居浜東港黒島埠頭で公開されている「羊蹄丸」・・外観は一部塗装もはがれ年輪を感じたが内部は展示されていた関係か綺麗に手入れされていた


4Fにある操舵室全容


操舵関係の機器はアナログ式


操舵の中心・・自動車のハンドルと同じ方式


青森港と函館港の航海用海図・・営業距離・113.0kmを3時間50分の航海


羊蹄丸の原動力・ディーゼルエンジン
最大速力:21,16ノット「39km」を推進する、洞爺丸転覆事故以降にディーゼルエンジンになったとか


3Fにあるラウンジだろうと思う・・当時のままか?展示船となってから改装されたのか?その説明がない


3Fにある特別室


B1にある本物のディーゼル機関車・・レールもそのままに


B1にある上野行きの客車と乗客


B1にある出航する羊蹄丸、見送りを受ける若い女性・・「上野発の夜行列車降りた時から青森駅は雪の中」・・


B1に設置されている昭和30年代の青森駅周辺を表現


昭和30年代の乗船風景の模型
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

続々・伊豫湯築城主河野氏と宝厳寺(松山市)

2012年05月09日 | 伊予松山歴史散策
宝厳寺は、伊予国の豪族河野家と縁の深い寺で道後湯月町にある。道後温泉本館から徒歩10分の所に位置する古刹、時宗の開祖一遍上人誕生の地として名高い。
寺伝には、天智天皇の7年(668)斎明天皇の勅願で国司・乎智宿弥守興(おちのすくねもりおき)が創建、当初は法相宗、その後天台宗、そして文永11年(1274)一遍上人により時宗と改めたとある。

一遍上人は、河野通広の第二子として延応元年(1239)に誕生した。幼くして僧門に入り文永11年(1274)時宗を開き翌年熊野の地で神勅を受けて「南無阿弥陀佛」として記した念佛札の賦算を始めた。
当時は貴族のものとされていた仏教を庶民に普及するため念仏のみで全国を遊行した。

弘安2年信濃国佐久郡で念佛踊りを始め、その後正応2年(1289)8月23日、神戸の観音堂(現・真光寺)で亡くなるまで全国各地を念佛遊行し一所不佳捨聖遊行上人と尊崇された。

なお、時宗の総本山は神奈川県藤沢市の遊行寺である。5月23日に平塚市に秋山好古揮毫石碑の写真取材に行くので、帰り遊行寺を参拝する。

註:今、松山市では夏目漱石と正岡子規が52日間共同生活をした「愚陀佛庵」が平成22年7月12日豪雨のため倒壊し再建地をめぐって議論伯仲しており、その一つの候補地が宝厳寺前である。・・再建地は未だ決定していない。

また、宝厳寺参道は道後地区にあった遊郭の町でもあった。(当時松ヶ枝町と呼ばれていた・・現在は上人町と言われている)

境内には沢山の句碑が建立されている。

旧遊郭があった松ヶ枝町で現在は上人坂と呼んでいる、宝厳寺参道入口に平成18年12月吉日、宝厳寺53世 真阿隆祥さんが記念石碑を建立された。


旧遊郭があった松ヶ枝町でその後ネオン坂と呼ばれ、現在は上人坂と呼んでいる。・・奥が宝厳寺


上人坂(旧松ヶ枝町)を上ると宝厳寺がある。


山門入口に建つ石碑で建立者は、河野一族の得能通綱である。
得能通綱は、伊予国の豪族・河野氏の一族で、桑村郡得能荘(現、西条市)を所領としていた。
後醍醐天皇らが元弘の変を起こすと、同じ河野一族である土居通増らと共に呼応して挙兵。鎌倉から派遣された長門探題北条時直を久米郡星岡(現、松山市星岡町)で迎撃し、勝利を収めた。南北朝の抗争では南朝側に与し、新田義貞に随行して越前に赴き転戦したが、延元2年(建武4年/1337年)斯波高経の奇襲を受けて討死した。


如何にも古刹を感じさせる山門・・何故か県・市からも文化財として指定されてない??


本殿、一遍上人立像はここに安置されている。・・境内は静かで一時の休息には打って付けの静寂な地である。・・ホテル街の従業員さん達がよく来ている。


本殿最上棟鬼瓦には河野家の家紋、「隅切り折敷縮み三文字」が上っている。河野氏の来歴を記した『予章記』には源頼朝公が征夷大将軍に成った折に北条と河野を酒宴によび、源は一を北条は二を河野は三をと折敷の上に置いた事から、この家紋を使用するようになったとある。『予章記』に記された時代には家紋はまだ発生しておらず、頼朝の酒宴において河野氏の座位が三位であったなどは到底信じられないことである。いずれも、家門を飾るためになした後世の創作というしかない・・ともある。・・ともあれ源平の合戦では伊予河野氏の活躍があったことには間違いなく、鎌倉幕府開幕の功労者の一人である。


本堂に安置されている一遍上人立像は室町期の肖像彫刻の傑作で国指定重文に指定されている。


旅衣 木のねかやのねいつくにか 身のすてられぬ ところあるへき

平成元年が生誕750年、没後700年に当たるを記念して、平成2年3月15日一遍会と地元有志が建立した。
正応2年、淡路で病脳をおして巡行した時の作で「念仏をすすめてまわるくるしみなどものの数ではない」との意味。

色里や 十歩はなれて 秋の風  子規 
明治28年10月6日漱石と道後に吟行に行った時詠んだ。


あかあかと 1本の道通りたり 霊剋るわが命なりけり 
 昭和12年5月12日斉藤茂吉が参拝した時に詠んだ。



宝厳寺参道にあった。「遊郭・松ヶ枝町」江戸時代以来の公娼制度が存在していたが、昭和33年法律により廃止された。画像は昭和30年・・何故宝厳寺参道に遊郭が出来たのか??これが仲見世のような町であればよかったし現在も繁栄していたのではないか??


明治時代の道後商店街・・漱石はこの町を歩き道後温泉に毎日通った。


明治末期の道後温泉本館で、当時の入口は本館の左側(北面)に一・二・三の湯の入口あったが、現在は商店街方向に造り変えられた・・これは昭和9年7月本館の改修をしたとあるのでこの時の現在の玄関入口に造り変えたのではないか??本館最上階に振鷺閣がありその上に白鷺を設置しているが北面を向いている・・当時の玄関を向けての設置・・道後温泉に来られたら是非確認して下さい。


この地が「愚陀佛庵」再建候補地で(一昨年まで遊郭、朝日楼の建物が残っていた)奥に宝厳寺本堂がある。


最近取壊された旧遊郭・「朝日楼」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

続・伊豫湯築城主河野氏と義安寺(松山市)

2012年05月08日 | 伊予松山歴史散策
伊豫国の守護、河野家の菩提樹「義安寺」は、天文8年(1539)河野景通の子「彦四郎義安」が建立した寺で、「義安寺」と名づけられた。寺院名は建立者に由来する。
この寺は、河野氏の本拠地湯築城の東北直ぐ近くに位置し、河野氏縁の深い寺である。通称、お六部(ろくぶ)さま。四国八十八箇所番外札所で、新松山霊場第58番札所と掲示してある。

湯築城は、天正13年(1585)秀吉の命を受けた小早川隆影・吉川元長の侵攻により湯築城を開城して河野氏は滅亡し河野氏の伊予の支配は終わるが、この時、家臣団の意見は二つに分かれる。一つは開城して無益な戦いによる家臣お呼び住民に及ぼす被害をなくする意見と、最後まで徹底抗戦すべきとの意見に二分されるが無血開城をする事に決着した。

その時家臣団がこの寺に集まり、二君に仕えぬ誓いをたてて自刃したと言う。
この時家臣が別れの水杯を交わしたと言い伝えられている「誓いの泉」が今も残っている。そして自刃した家臣の精霊が蛍となったと言う伝説があり、このあたりの蛍を「義安寺蛍、または源氏蛍」等と呼ばれる大形の蛍で、石手川から引き込まれ寺の前を流れている川筋から山手にかけて乱れ飛ぶ有様は見事で蛍の名所であった。

先日(5月5日)埼玉県越谷市から松山観光に来られた姉妹をこの寺に案内した。

山門に 蛍逃げこむ しまり哉・・子規の句碑がある。

義安寺正面・・県道187号線沿いに位置する・・直ぐ左手に子規記念博物館がある


義安寺山門 1


義安寺山門 2


山門を潜って境内に


義安寺、本堂


本堂屋根瓦に河野家の家紋が「隅切り折敷縮み三文字」


家臣が別れの水杯を交わしたと言い伝えられている「誓いの泉」境内東奥にある


「誓いの泉」横に建立されている、子規の句碑
山門に 蛍逃げこむ しまり哉  子規


境内は県道187号線沿いにあり本堂の直ぐ裏は山を造成し墓地になっている


西側入口から見た境内・・この入口に「松山新四国霊場第58番と記載してある


境内裏の墓地から見た「湯築城跡」


墓地の一番上に「河野家」の供養等がある
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松山市の大神輿総練

2012年05月06日 | 伊予松山歴史散策
例年松山秋まつりの時期に行われていた「松山市の大神輿総練」を、今年は5月6日に開催された。
天気予報は午後から雨天であったが、予報は外れ好天に恵まれGW最終日いい行事が披露された。

神輿は市内の22体が松山城三ノ丸公園に集まり、迫力満点の神輿の鉢合わせ演技が行われ、また昨年に引き続き宇和島から特別参加した牛鬼2体が演技を披露、その後一斉に練りを観衆の前で披露し、最後は三本締めで予定された行事は全て無事終わった。

開会は午後1時に始まり、野球サンバのほか、虎舞や水軍太鼓など松山に根差した郷土芸能が披露された。
私は、午後2時過ぎに二ノ丸から640mmレンズで総練の様子を撮ってみた。
二ノ丸は会場から東方向になり、順光で被写体を撮る事が出来なかった。
なお、大神輿総練には、女神輿・子供神輿・江戸神輿(江戸神輿研究会)も参加した。


松山市「大神輿総練のポスター」


松山市・大神輿総練の開会式の挨拶をする中村愛媛県知事・・半被を着て


会場に22体の神輿が入場


大神輿総練に華を添える伊豫水軍太鼓連


全国の神輿の喧嘩の中でもその激しさで有名な道後地区の鉢合わせ・・今日は本番さながらの公開演技を披露した・・本番は10月6日の松山秋祭り、道後温泉駅前広場で8体の神輿の鉢合わせがある。






宇和島市から今年も特別参加の牛鬼が2体、赤い牛鬼は全国で一番大きいとの由


赤牛鬼


青牛鬼、少し小ぶり


これから参加神輿22体の総練


総練最後の腕で持ち上げられた神輿


今年から5月開催となった大神輿総練も無事終、最後は観衆者と神輿守一同が三本締めで締めて閉会した。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする