EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

一草庵・放浪の俳人「種田 山頭火」

2012年05月15日 | 伊予松山歴史散策
先日県外からお越しになった俳句愛好者であられる方から種田山頭火が松山で過ごしたと言われている一草庵を案内して欲しいと頼まれてお連れしました。その時の画像を交えて紹介します。
一草庵は、松山市御幸一丁目435番地1にあり愛媛県護国神社の直ぐ西に位置する御幸地前にある、種田山頭火終焉地である。名前は正一で明治15年(1882)12月3日―昭和15年(1940)10月11日、山口県西佐波令村(現・山口県防府市大道)の大地主の出身。旧制山口中学(現山口県立山口高等学校)から早稲田大学文学部に入学したが、神経衰弱のため中退した。その後、帰省し療養の傍ら家業である造り酒屋を手伝った。

明治44年(1911)荻原井泉水の主宰する自由律俳誌『層雲』に寄稿。
大正2年(1913)井泉水の門下となる。大正5年(1916))には、『層雲』の選者に参加。その後雲水放浪に生き托鉢行乞の旅をつづけ、酒に生き、句作に生きた山頭火は「わたしはのんだ、今まで日本を歩いたが、伊豫国が一番よかったように思う。風土も美しく人情もよかった。どうせ死ぬなら伊豫へ渡るとしようか」と友人らに相談し彼らの世話で昭和14年10月1日広島から海路松山に上陸して道後温泉に歩いて15分ここに小庵を結び安住した。もう一つ松山に来たかったのは、野村朱鱗洞の墓参もあった。

「おちついて死ねそうな草萠ゆる」 来松一年目の昭和15年10月11日急死し享年59歳。
松山では、大山澄太をはじめ高橋一洵・藤岡正一達が山頭火を支えたのである。
自由奔放に生きた生涯であった。

庭内に自由律の自筆句碑2基がある。
「鐵鉢の中へも霰」 「春風の鉢の子一つ」


ひょいと四国へ晴れきつてゐる・・山頭火と伊豫松山


平成21年3月に完成した一草庵と入口の案内板


一草庵の扁額「本物」


平成21年3月に完成した一草庵




一草庵の玄関で「一草庵の扁額」は複製品で、本物は南側縁側奥に保管されている


一草庵座敷


平成21年3月に完成した一草庵、隣接する用地を取得して休憩所等の施設を建設した・画像は、休憩所


画像は何時頃か不明だが、山頭火が住んでいた改築前の一草庵


昭和27年(1952)10月、当時の愛媛県知事・久松定武を会長とする「山頭火顕彰会」が浄財を集めて庵を再建したとある・・その時は玄関横の増築された建物はないので、その後の物


平成21年3月再建当時の建物として工事は行われた


昭和27年10月再建当時の一草庵・奥に伊豫松山城天守が見える


昭和27年再建以前の間取り


一草庵、玄関口にある句碑
鐵鉢(てつぱつ)の中へも霰(あられ)・・昭和7年1月8日、福岡県遠軽郡芦屋町で托鉢に出た時の句


一草庵、玄関口にある句碑
春風の鉢の子一つ・・昭和8年3月19日山口市小郡町での句
コメント (1)
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