EEKの紀行 春夏秋冬

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続・伊豫湯築城主河野氏と義安寺(松山市)

2012年05月08日 | 伊予松山歴史散策
伊豫国の守護、河野家の菩提樹「義安寺」は、天文8年(1539)河野景通の子「彦四郎義安」が建立した寺で、「義安寺」と名づけられた。寺院名は建立者に由来する。
この寺は、河野氏の本拠地湯築城の東北直ぐ近くに位置し、河野氏縁の深い寺である。通称、お六部(ろくぶ)さま。四国八十八箇所番外札所で、新松山霊場第58番札所と掲示してある。

湯築城は、天正13年(1585)秀吉の命を受けた小早川隆影・吉川元長の侵攻により湯築城を開城して河野氏は滅亡し河野氏の伊予の支配は終わるが、この時、家臣団の意見は二つに分かれる。一つは開城して無益な戦いによる家臣お呼び住民に及ぼす被害をなくする意見と、最後まで徹底抗戦すべきとの意見に二分されるが無血開城をする事に決着した。

その時家臣団がこの寺に集まり、二君に仕えぬ誓いをたてて自刃したと言う。
この時家臣が別れの水杯を交わしたと言い伝えられている「誓いの泉」が今も残っている。そして自刃した家臣の精霊が蛍となったと言う伝説があり、このあたりの蛍を「義安寺蛍、または源氏蛍」等と呼ばれる大形の蛍で、石手川から引き込まれ寺の前を流れている川筋から山手にかけて乱れ飛ぶ有様は見事で蛍の名所であった。

先日(5月5日)埼玉県越谷市から松山観光に来られた姉妹をこの寺に案内した。

山門に 蛍逃げこむ しまり哉・・子規の句碑がある。

義安寺正面・・県道187号線沿いに位置する・・直ぐ左手に子規記念博物館がある


義安寺山門 1


義安寺山門 2


山門を潜って境内に


義安寺、本堂


本堂屋根瓦に河野家の家紋が「隅切り折敷縮み三文字」


家臣が別れの水杯を交わしたと言い伝えられている「誓いの泉」境内東奥にある


「誓いの泉」横に建立されている、子規の句碑
山門に 蛍逃げこむ しまり哉  子規


境内は県道187号線沿いにあり本堂の直ぐ裏は山を造成し墓地になっている


西側入口から見た境内・・この入口に「松山新四国霊場第58番と記載してある


境内裏の墓地から見た「湯築城跡」


墓地の一番上に「河野家」の供養等がある
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