EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

今治城

2009年10月03日 | 往年の名車 メグロ
今治城
 9月27日丸亀城の帰りに訪れた。今治城は度々訪れているが何時も100名城スタンプラリー帳を持参してなく今回スタンプを押しに行った。
今治城天守は、城創りの名人藤堂高虎が、慶長7年(1602年)、に築城開始され慶長9年(1604年)に完成した。慶長15年(1610年)ごろに亀山城に移されたと伝えられているので、約6年間ほどしか存在していなかったことになる。その後、今治城には天守がなく現在の天守は昭和55年10月に市政施行60周年記念事業として再建された。専門家の指導で再建された天守は一部の文献では創建当時の天守でない天守が再建されているとあり、「模擬天守」であると評価されている。それは下記のように言われている。
「今治城の天守再建には、移築されたと伝わる亀山城天守の外観を参考にしている。亀山城天守は明治初年に撮影された古写真や平面図が残され、おおよその形状がわかっているが再建された今治城天守はその姿と大きく異なっている。具体的には、亀山城天守が破風のほとんどない層塔型であるのに対し再建天守は大入母屋破風を基部とした望楼型であり、張り出しや出窓があるなどと、構造、意匠が異なる。また、天守の建てられていた場所も本丸の中央付近と推定されているが、本丸塁線上の二重櫓(北隅櫓)が建てられていた場所に建てられている。そもそも、天守が本当に建っていたかも明確ではないなど、史実に基づかない「模擬天守」であると評価されている」・・・とある。
折角再建した立派な天守も形無しである。しかし誇れるものが平成19年復元された。平成16年に築城・開町400年を迎え、その記念事業として「鉄御門」の再建工事が進められ、2年の歳月をかけ平成19年9月24日無事に落成式を迎え鉄御門が復元された。特に石垣が凄い。滋賀県大津市坂本の穴太の石積み(安土城から広まった穴太の石積)の歴史を継承している穴太衆積14代粟田純司氏が施行している。さすが本家本元が積んだ石垣には見るものがある是非石積みを見てほしい。・・勿論御門も・・今治藩主は、伊予松山藩主、松平定行を補佐するために寛永12年(1635)家康の甥の松平定房(松平定行の弟)が3万石で就封した。伊予松山藩とも深い関係がある。
藤堂高虎は、層塔式天守築造を創始し伊賀上野城や丹波亀山城などを築城した築城の名手で加藤清正と双璧である。江戸城大手門も藤堂高虎が創設した。
伊勢国津藩第11代藩主藤堂高猷の五男が伊予松山藩第14代藩主松平定昭である。
平成18年日本100名城(79番)に選定された。
 画像は、再建された天守で、模擬天守と言われているから、私は、今治市立今治城博物館と呼ばしてもらう。
日本100名城79番目、私は35番目の探訪である。
次の城郭紀行は、11月8日に今治城と関わりのある伊賀上野城に行く予定である。
コメント
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