EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

湯築城跡

2009年10月05日 | 往年の名車 メグロ
湯築城跡

湯築城は、14世紀から16世紀後半「南北朝時代から安土桃山時代」にかけて、約250年間に渡り伊予の守護であった河野氏の居城として存続した、中世の城跡が市街地にあるものは、殆ど外堀は埋め立てられ、土塁は取り壊され宅地として開発されてますが、この湯築城は戦国時代のタイムカプセルの様に現存している事が重要な史跡で日本でも此処だけである。
発掘調査は昭和63年から平成10年に掛けて行われ、特に県立道後動物園があった所に限り学術的な発掘調査がされその成果に基づいて文化財を生かした整備を行い平成14年4月12日に武家屋敷2棟・土塁・道路・排水等の立体復元や平面復元が完成し一般に公開開始した。また、平成14年9月に国の史跡「湯築城跡」に指定された。広さは、外堀を含む南北350m・東西295m・面積8,6ha(8町6反)で東京ドーム1,7倍の広さがあり丘陵の高さは31mある。中世の城としては珍しい平山城で、攻めるには攻めやすく、防御するには大変困難な城である。
四国征伐をめざす豊臣秀吉の命を受けた小早川隆景が湯築城を落城させ城は、小早川隆景に与えられた。隆景が筑前に移った後、1587年(天正15年)、福島正則が城主となるが、正則が国分山城に居城を移したため、1587年7月に廃城となった。16年後の、1602年1月15日に勝山に加藤嘉明が城の築城を開始、1603年10月新城下に仮御殿が完成、加藤嘉明が新城下に居を移し此処に松山と言う名称が公にされた。伊予松山藩の誕生である。
画像は、外堀の隣接にあるマンションから撮影した国指定史跡「湯築城跡」である。

平成18年日本100名城(80番)に選定された。
 日本100名城80番目、私は36番目の探訪である。
平成14年開園当時からボランティアガイドをしていたが現在は休んでいる。100名城スタンプも未だに押してなく本日押しに行った。
コメント
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