夜のスイッチ

「夜のスイッチ」(レイ・ブラッドベリ 晶文社 2008)

絵は、マデリン・ゲキエア。
訳は、北山克彦。

この本は絵本。
むかし、夜の嫌いな男の子がいた。
男の子は明かりがないといられない。
夏の夜、ほかの子たちはそとで遊んでいるのに、その子は遊びにでられない。
そんな男の子のもとに、ある日ダークという名前の女の子があらわれる。
ダークは男の子に、夜のスイッチの存在を教える。
「夜のスイッチをいれると、星にスイッチが入るわ!」


じつをいうとレイ・ブラツドベリは苦手な作家で、一冊読めたためしがない。
ブラッドベリの詩情をうけつけるチャンネルが、こちらにないのだろう。
でも、この絵本は楽しめた。
楽しめたのは、マデリン・ゲキエアの絵と、この本のつくりかたが大きい。
少ない線で、しっかり形をとらえた絵はスマートだし、その構成は大胆。
配色もセンスがいい。
散文詩のようなブラッドベリの文章を、じつによく絵本というかたちに昇華している。

子どもよりも、絵本好きの大人が喜びそうな絵本だ。


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夜をつけよう (タナカ)
2009-02-27 23:17:21
ブラツドベリのこの作品は、「夜をつけよう」というタイトルでも出版されていることを、最近図書館で知った。

「夜をつけよう」(ディロン夫妻 今江祥智訳 BL出版 1998)

その図書館の場合だと、「夜のスイッチ」は請求記号が93(英米文学)のところに並べられていたのに対し、「夜をつけよう」はE(絵本)のところにならべられていた。

さて、せっかく2冊みつけたので訳をくらべてみたい。

「夜のスイッチ」
《むかし、〈夜〉の嫌いな男の子がいた》

《そして暗くなると そとに遊びに出ようとはしなかった。その子はとても孤独だった。そして不幸だった。だって窓からは ほかの子供たちが 夏の夜の芝生で遊ぶのが見えたから。》

《とつぜん、その子は耳にした 窓をコツコツたたく音を! そこに何か黒いものがいた。網戸をノックする音がした。そこに何か黒いものがいた! 裏のポーチでトントンと音がした。 そこに何か黒いものがいた!》


「夜をつけよう」
《むかし 小さな男の子がいて その子は夜が すきじゃなかった》

《それに、暗くなってからは、外で遊ぼうともしなかった。その子はほんとにひとりぼっち、そして、しあわせじゃなかった。だって窓からは、夏の夜の芝生で遊んでいる子どもらが見えるんだもの》

《だしぬけに だれかが窓をたたく音がした! なにやら黒い影が見える 網戸をだれかたたいている。なにやら黒い影が見える 裏口をだれかたたいている。なにやら黒い影がみえるんだったら!》

…適当に同じ箇所を抜き出してみた。
傾向としては、「夜のスイッチ」のほうはクール。
「夜をつけよう」のほうは口語的で扇情的。
両方とも、意味はおなじだけれど、表現はだいぶちがう。

こうなった理由は、おそらく絵にある。
「夜のスイッチ」の絵がデザイン的なのに対して、「夜をつけよう」のほうはより具象的。
かつ、色合いがきつい。
バタ臭いということばがあけれど、少々バタ臭い。
この絵のちがいが、訳のちがいにあらわれたのではないかと思う。


 
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