熱は高い方から低い方へ流れます。
一方的であって逆はありません。
熱力学の第二法則でしたっけ?
時間も逆には流れません。
先生と生徒の関係も同様です。
一方的な流れしかありません。
時間が拘りますからね。
漱石→龍之介の流れはありますが逆はありません。
芥川も内田百も似ているところが多くあり
明白に漱石の影と思えます。
(こんな話は論文その他ゴマンとあるでしょう)
漱石が百に影響を受けたことは考えられません。
晩年の弟子だしね。
久保田万太郎の弟子に安藤鶴夫がいると聞けば
なるほどと思いますが、逆にアンツルさんから
万太郎が何かをもらったとは思えません。
第一、スケールが違いますね。
師と弟子の間にもエントロピーの法則が当てはまる
ので、流れは一方的です。
○
かなり以前にNHKでアウン・サン・スー・チーが
矢野暢の教え子であるという話を流していました。
矢野先生は広島大学で数年教えられた後、京大に移り
そこでの出会いですね。
彼もスキャンダル?が起きるまではマスメディアに
頻出しておられました。
記憶されている方もおられるかもしれませんね。
ここでの師弟関係も矢野先生がスー・チーは教え子だ
などと触れ回っていたとは思えません。
(「師弟」といっても実際にどれほどかは存じません)
○
私は就職活動のおり矢野先生に企業へ出す推挙文を
お願いに行きました。
教官室で先生が苦労されたのを思い出します。
よほど取り柄がない学生だったのでしょう。
(国際関係論を教わっていました)
あの頃は総合雑誌に執筆されることはあってもまだ
無名に近かったですね。
天国の矢野先生、井上が教え子といってるのをご覧
になって苦笑されている顔が見えるようです。
「そんな学生がいたかなあ?まあとにかく、あまり
ボクの名前を自己宣伝に使わないでくれたまえ」
○
師と弟子の流れは一方的ですから、影響を受けている
と自認する側からは「私は~先生の教え子」と名乗る
ことができます。
エライ先生を持ち出して自己宣伝に使うとしても。
逆に有名になった弟子を師の側が
「あれはボクの教え子で」というのは頂けません。
一方的な関係しかありえない処でそれを持ち出される
と困る教え子も多いはずです。
「アイツに言われたかない」
○
私の目の前をたくさんの生徒が通り過ぎました。
現在、立派な大人になっている人も多いでしょう。
当人の努力が第一です。
立派な方にも数多く出会っている筈です。
ですから「○は昔私が教えたことがあり」と
塾のオッサンが言えるものではありません。
私の悪影響を誰かに直して頂いたかもしれません。
それでも、ウワサを聞くと内心嬉しくはあります。
そして実は威張りたい気も少しはないでもない・・
情けない話ですがね。
大村はま先生は著書で戒めておられたものですが
なかなかその域には到達できないものです。
先日も、誰某は○○大学に行っているという話。
「あの子はねえ、苦労したんだ・・」
漱石から始めた話のスケールが小さくなりました。
○
小さくなりついでに、多くの塾の合格実績。
さも自分の力の如く言ってますが何とかなりません
かねえ。
生徒が頑張った結果にしかすぎないのですから。
実績が少ない塾のヒガミに聞こえますか?
ん~、書くことって難しいですね。