『ゲゲゲ・・』と『龍馬』と、ブログネタのないおりから
有り難いヒットです。
つまらないものは悪口さえ書く気になれませんしね。
とはいえ「ブログ書かねばならないの?」と聞かれると
ん~、困るけど。
○
『ゲゲゲの女房』
貸本業界が落ち目でナカモリさんはいなくなるし
生活の先行きが見えません。
それに、子供が出来たのに水木さんは初めは喜ばない。
厳しい話ですね。
確か、あと数年後には良い世界が開けてくる(?)のに
当時はこころ細いことだったでしょう。
○
新聞で、かなりの文化人らしい方が『ゲゲゲ』に触れ
当時は日本が右肩上がりだったからみんな頑張れたのだ
という意見を書いておられました。
今とは違う、まだ良い時代だったということでしょう。
彼は多分、まだ若い方なのでしょう。
よって、仕方がないのかもしれませんが現実の真っ只中
では、右が上がろうが下がろうが関係ありません。
みんな、必死で生きるだけです。
少なくとも右かた上がり、でなきゃ頑張れない、
などという甘い発想はなかったハズですね。
これひとつとっても「今の若い者ときたら・・・」
苦しいとか云いつつ、旅行はするは、外食はするは
ケータイを買いかえの、化粧品に金をつぎ込みの・・
嫌がられるのを承知で、団塊ジジイが説教めきますが
私ら、家族で旅行など一度もしたことなかったぞ。
年に何度か、一杯50円のラーメンを食べに出かけるのが
どれほど嬉しかったか。
(宇品海岸通りに「中村屋」という小さな店がありました)
○
小学校で同じクラスにY君という明るい子がいました。
転校してきた私は知らなかったのですが、その子の家には
遊びに行ってはいけない、というウワサが聞こえました。
隠れて見に行きますと、100M道路の公園部分に掘立小屋
が並び、その一軒がY君ちでした。
子供ながらに絶句しました。
でも、そんな家もまだ多かったですね。
私だって父が勤める会社の裏の作業小屋の二階を借りて
そこに一家5人が住んでいたのです。
(四畳半二間。トイレと台所は会社事務所と共用)
クラスの友達が遊びに来て肩身が狭かった。
○
ディズニーへでも連れてかなきゃ、子供がイジメにでも・・
そうかもしれませんが、私らのころだってイジメはあった。
デパートの屋上程度だって、一度だけ行ったことがあるけど
イジメがあろうがなかろうが、金がなきゃ親だってそれ以上
連れて行けないのです。
仕方のない現実でありました。
父母は結婚した時にちゃぶ台がなくミカン箱で代用していた
とか聞きました。
脚が折りたたみ式の(金属製の細長いU字の脚)ちゃぶ台を
買ったのが私が小学6年ではなかったかなあ。
○
たしかに後から振り返れば、頑張ることで世界が広がった
良い時代ではあったのですが、私たちアラカンの父母世代は
その当時は、貧しい中をひたすら駆けるだけでしたね。
水木さんが実際にどれほど貧しかったかは存じませんが
かなり厳しい生活だったハズです。
TVでは一見何とかなりそうにも思えますが、本当は
もっと大変だったのではないでしょうか。
「子供はキツイ」というのは正直な感想ではなかったか。
だから奥さんも話を切り出しにくかったのでは?
○
『団塊は ビンボウまでも また自慢』
とか言われそうですが、懐かしい古き良き時代だったろー
などと勝手に思わないでくれい!
貧しさゆえのセコイ話哀しい話は山ほどあるぞ、なのです。
今は、夢のような良い時代です。
我々の父母世代の日本人に感謝!
団塊世代の仲間たちにも感謝!
小中学校ではこれを教えてほしいなあ。んとに。
有り難いヒットです。
つまらないものは悪口さえ書く気になれませんしね。
とはいえ「ブログ書かねばならないの?」と聞かれると
ん~、困るけど。
○
『ゲゲゲの女房』
貸本業界が落ち目でナカモリさんはいなくなるし
生活の先行きが見えません。
それに、子供が出来たのに水木さんは初めは喜ばない。
厳しい話ですね。
確か、あと数年後には良い世界が開けてくる(?)のに
当時はこころ細いことだったでしょう。
○
新聞で、かなりの文化人らしい方が『ゲゲゲ』に触れ
当時は日本が右肩上がりだったからみんな頑張れたのだ
という意見を書いておられました。
今とは違う、まだ良い時代だったということでしょう。
彼は多分、まだ若い方なのでしょう。
よって、仕方がないのかもしれませんが現実の真っ只中
では、右が上がろうが下がろうが関係ありません。
みんな、必死で生きるだけです。
少なくとも右かた上がり、でなきゃ頑張れない、
などという甘い発想はなかったハズですね。
これひとつとっても「今の若い者ときたら・・・」
苦しいとか云いつつ、旅行はするは、外食はするは
ケータイを買いかえの、化粧品に金をつぎ込みの・・
嫌がられるのを承知で、団塊ジジイが説教めきますが
私ら、家族で旅行など一度もしたことなかったぞ。
年に何度か、一杯50円のラーメンを食べに出かけるのが
どれほど嬉しかったか。
(宇品海岸通りに「中村屋」という小さな店がありました)
○
小学校で同じクラスにY君という明るい子がいました。
転校してきた私は知らなかったのですが、その子の家には
遊びに行ってはいけない、というウワサが聞こえました。
隠れて見に行きますと、100M道路の公園部分に掘立小屋
が並び、その一軒がY君ちでした。
子供ながらに絶句しました。
でも、そんな家もまだ多かったですね。
私だって父が勤める会社の裏の作業小屋の二階を借りて
そこに一家5人が住んでいたのです。
(四畳半二間。トイレと台所は会社事務所と共用)
クラスの友達が遊びに来て肩身が狭かった。
○
ディズニーへでも連れてかなきゃ、子供がイジメにでも・・
そうかもしれませんが、私らのころだってイジメはあった。
デパートの屋上程度だって、一度だけ行ったことがあるけど
イジメがあろうがなかろうが、金がなきゃ親だってそれ以上
連れて行けないのです。
仕方のない現実でありました。
父母は結婚した時にちゃぶ台がなくミカン箱で代用していた
とか聞きました。
脚が折りたたみ式の(金属製の細長いU字の脚)ちゃぶ台を
買ったのが私が小学6年ではなかったかなあ。
○
たしかに後から振り返れば、頑張ることで世界が広がった
良い時代ではあったのですが、私たちアラカンの父母世代は
その当時は、貧しい中をひたすら駆けるだけでしたね。
水木さんが実際にどれほど貧しかったかは存じませんが
かなり厳しい生活だったハズです。
TVでは一見何とかなりそうにも思えますが、本当は
もっと大変だったのではないでしょうか。
「子供はキツイ」というのは正直な感想ではなかったか。
だから奥さんも話を切り出しにくかったのでは?
○
『団塊は ビンボウまでも また自慢』
とか言われそうですが、懐かしい古き良き時代だったろー
などと勝手に思わないでくれい!
貧しさゆえのセコイ話哀しい話は山ほどあるぞ、なのです。
今は、夢のような良い時代です。
我々の父母世代の日本人に感謝!
団塊世代の仲間たちにも感謝!
小中学校ではこれを教えてほしいなあ。んとに。
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