「答えは?
(ア)ですか。
ということは主人公は嬉しいと思ってる?
どこらへんに書いてあるかな。
おおなるほど、ここに書いてあるね。
でも待ってよ、こちらにはこう書いてあるよね。
これって、嬉しいのかな?
(ア)でいい?
どう思う?」
ここまで(ゆ-どー)されて、×サインを出しまくられ
それでも自分の誤答にこだわる生徒はごく少数。
多くの生徒は大人の顔色で自分の答えが合っているか
間違っているか、まずそれを判断します。
すっとマルをくれなきゃ×なんだ、と。
生徒の中にはマルを得ることが勉強だと思っていて
自分が間違っていたら次の答え、また次、と矢継ぎ早に答え
どれかがマルになったら一安心・・いますよね?
そうしてマルの瞬間に頭の中から全てが消えてなくなる。
(こんな子供は昔からいました。)
○
間違った生徒に正しい理解を得させるために、
ステップを踏んでもらって、考えをリードしようと
「まず~をやってみよう、そこだけ出来たら教えて」
暫くして「出来ました!!」
最後まで答えを出しているのです。しかも・・・また誤答。
こちらが「まずやってみろ」といったことなど何も
手をつけていないことが多いのです。
私の言うことに含まれた「それ違うよ」というサインだけを
掬いとり(気を利かせて)しまうのでしょう。
ここまで(マル病)に取りつかれているのですね。
あるいは、ヒントが出たということは違ってるんだから
別な答えまで出しておかなきゃ叱られる、かな。
○
算数でも似たようなものです。
問題に出ている数字を足したり引いたりいくつか操作を
して答えがマルになればそれで終了。
どうしてその計算なのか、意味など考えません。
「先生、質問です。
これって○○で割って最後に1を足すやりかたですよね?」
本人は「一生懸命考えて」積極的に授業に参加しているのです。
それはね、質問じゃなくて・・と説明します。
「・・ということですよ。分かった?」
「はい、分かりました」
・・分かっていると思います?
多くの子供は、大人が「分かったか」と訊いてくる以上、
分からないとは言いづらく、ハイと言います。
あるいは、ご当人は本当に分かった気持になっているけれど
実はさっぱり分かっていないのかもしれません。
もちろん本当に分かってくれる生徒もいますが。
○
本当に分かっているかどうか、すぐには判断できない
こともしばしばあります。
相手の頭の中は簡単には透視できませんよね。
いつも「君は分かったというけど本当は・・?」と
チェックを入れるのは大変にマズイと思います。
人間はプライドの生き物だから。
長い時間をかけて見ていると、およそ掴めるものです。
(だから一人の先生が見続けることが大切)
○
私は若いころ、頭だけで上記のようなことを思って
いましたが、実際の「現場」では甘く見過ごしていた
ことが多かったように思われます。
「分かった?」
晴れやかに「ウン!」
式も答えも完璧なら、つい「分かっただろう」と思いますよね。
少々の応用なら出来ちゃうし。
ところが。。
○
ですから、タマに勉強を見てあげて、ヒントを出し
考え方を完璧にリードしてても、それが相手に分かったか
どうかは、かなり疑問。
私の勝手な推測では、例えばごくたまに父親が教える、など
かなりな割合で「実は・・」
・・ああ、お叱りをうけそうですね。
○
スミマセン、また続きます。
◎
分かるとはどういうことか
分かる必要があるのか
分かった気にさせる効用
「分かる」と「教えない」との関係
・・・など奥行のキリのない話がさまざまにありますが
ここでは棚上げしています。
(ア)ですか。
ということは主人公は嬉しいと思ってる?
どこらへんに書いてあるかな。
おおなるほど、ここに書いてあるね。
でも待ってよ、こちらにはこう書いてあるよね。
これって、嬉しいのかな?
(ア)でいい?
どう思う?」
ここまで(ゆ-どー)されて、×サインを出しまくられ
それでも自分の誤答にこだわる生徒はごく少数。
多くの生徒は大人の顔色で自分の答えが合っているか
間違っているか、まずそれを判断します。
すっとマルをくれなきゃ×なんだ、と。
生徒の中にはマルを得ることが勉強だと思っていて
自分が間違っていたら次の答え、また次、と矢継ぎ早に答え
どれかがマルになったら一安心・・いますよね?
そうしてマルの瞬間に頭の中から全てが消えてなくなる。
(こんな子供は昔からいました。)
○
間違った生徒に正しい理解を得させるために、
ステップを踏んでもらって、考えをリードしようと
「まず~をやってみよう、そこだけ出来たら教えて」
暫くして「出来ました!!」
最後まで答えを出しているのです。しかも・・・また誤答。
こちらが「まずやってみろ」といったことなど何も
手をつけていないことが多いのです。
私の言うことに含まれた「それ違うよ」というサインだけを
掬いとり(気を利かせて)しまうのでしょう。
ここまで(マル病)に取りつかれているのですね。
あるいは、ヒントが出たということは違ってるんだから
別な答えまで出しておかなきゃ叱られる、かな。
○
算数でも似たようなものです。
問題に出ている数字を足したり引いたりいくつか操作を
して答えがマルになればそれで終了。
どうしてその計算なのか、意味など考えません。
「先生、質問です。
これって○○で割って最後に1を足すやりかたですよね?」
本人は「一生懸命考えて」積極的に授業に参加しているのです。
それはね、質問じゃなくて・・と説明します。
「・・ということですよ。分かった?」
「はい、分かりました」
・・分かっていると思います?
多くの子供は、大人が「分かったか」と訊いてくる以上、
分からないとは言いづらく、ハイと言います。
あるいは、ご当人は本当に分かった気持になっているけれど
実はさっぱり分かっていないのかもしれません。
もちろん本当に分かってくれる生徒もいますが。
○
本当に分かっているかどうか、すぐには判断できない
こともしばしばあります。
相手の頭の中は簡単には透視できませんよね。
いつも「君は分かったというけど本当は・・?」と
チェックを入れるのは大変にマズイと思います。
人間はプライドの生き物だから。
長い時間をかけて見ていると、およそ掴めるものです。
(だから一人の先生が見続けることが大切)
○
私は若いころ、頭だけで上記のようなことを思って
いましたが、実際の「現場」では甘く見過ごしていた
ことが多かったように思われます。
「分かった?」
晴れやかに「ウン!」
式も答えも完璧なら、つい「分かっただろう」と思いますよね。
少々の応用なら出来ちゃうし。
ところが。。
○
ですから、タマに勉強を見てあげて、ヒントを出し
考え方を完璧にリードしてても、それが相手に分かったか
どうかは、かなり疑問。
私の勝手な推測では、例えばごくたまに父親が教える、など
かなりな割合で「実は・・」
・・ああ、お叱りをうけそうですね。
○
スミマセン、また続きます。
◎
分かるとはどういうことか
分かる必要があるのか
分かった気にさせる効用
「分かる」と「教えない」との関係
・・・など奥行のキリのない話がさまざまにありますが
ここでは棚上げしています。
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