山頭火も好きです。
好きな俳人は多いですが、山頭火は
やはり気になる存在ですね。
といっても文庫本の句集を持っているくらいです。
人気が高い人ですから、それを「好きです」というと
いかにも安っぽい感じがしますよね。
ですから友達には言えない。
でも、馬鹿にされそうだけれどやっぱり好き。
○
といっても自由律は難しい。
分かりませんね。
五七五が分かりやすい。
芭蕉や蕪村の字余りだって、私には
よく分からないところもあります。
「かれえだに烏のとまりたるや秋の暮」
思いっきり字余りですね。
学校でこんなことしたら叱られます。
名句だろうと言われると、なるほど、とも思い
ますが「からすのとまりけり」はどうか。
中を7音にして「からすのとまる」ではどうか。
「からすの一羽」なら?
私が作るなら「枯れ枝にからす一羽か秋の暮」
そりゃ芭蕉が良いけれども、自分が五・十・五の
季重なり俳句を発表できるか、全く自信はありません。
つまり、分かっていない。
○
自由律となると更に格段難しい。
有名な「まっすぐな道で さびしい」
たしかに凄い句だけれど、以下と比べて
何が違うのか、説明できません。
つまり、分かっていない。
「まっすぐなみち さびしい」
「みちまっすぐで さびしい」
「みちまっすぐの さびしさ」
「みちまっすぐはさびしい」
「まがり道を安堵」
「ひたすら西方 道ひとつ」
「西日さすまっすぐなみち」
「いっぽん道つづくさびしさ」
「さびしくて みちまっすぐ」
いくらでっちあげても遥かに及びません。
で、何が違うのか
どうすればよいのか
◎
メディアのさわぐ句には作者のドラマが
くっついていることが多いですね。
薄幸、夭折、美人、百歳超、小学生・・
山頭火も芭蕉も、ドラマがあって評価を
上げている面がありそうです。
子規も健康で長生きしていたらどうか?
句は、余りに凝縮された世界であるために
一見、見通せるようでいて、分からない。
そこで付加価値のストーリーが要るのです。
「すっごい、耳が聞こえないのに交響曲を
作曲するんですって」・・みたいにね。
普通の平凡な生き方をしつつ世に出るのは
至難のわざ。
目立てばよい、という風潮が蔓延します。
がんばってね。
好きな俳人は多いですが、山頭火は
やはり気になる存在ですね。
といっても文庫本の句集を持っているくらいです。
人気が高い人ですから、それを「好きです」というと
いかにも安っぽい感じがしますよね。
ですから友達には言えない。
でも、馬鹿にされそうだけれどやっぱり好き。
○
といっても自由律は難しい。
分かりませんね。
五七五が分かりやすい。
芭蕉や蕪村の字余りだって、私には
よく分からないところもあります。
「かれえだに烏のとまりたるや秋の暮」
思いっきり字余りですね。
学校でこんなことしたら叱られます。
名句だろうと言われると、なるほど、とも思い
ますが「からすのとまりけり」はどうか。
中を7音にして「からすのとまる」ではどうか。
「からすの一羽」なら?
私が作るなら「枯れ枝にからす一羽か秋の暮」
そりゃ芭蕉が良いけれども、自分が五・十・五の
季重なり俳句を発表できるか、全く自信はありません。
つまり、分かっていない。
○
自由律となると更に格段難しい。
有名な「まっすぐな道で さびしい」
たしかに凄い句だけれど、以下と比べて
何が違うのか、説明できません。
つまり、分かっていない。
「まっすぐなみち さびしい」
「みちまっすぐで さびしい」
「みちまっすぐの さびしさ」
「みちまっすぐはさびしい」
「まがり道を安堵」
「ひたすら西方 道ひとつ」
「西日さすまっすぐなみち」
「いっぽん道つづくさびしさ」
「さびしくて みちまっすぐ」
いくらでっちあげても遥かに及びません。
で、何が違うのか
どうすればよいのか
◎
メディアのさわぐ句には作者のドラマが
くっついていることが多いですね。
薄幸、夭折、美人、百歳超、小学生・・
山頭火も芭蕉も、ドラマがあって評価を
上げている面がありそうです。
子規も健康で長生きしていたらどうか?
句は、余りに凝縮された世界であるために
一見、見通せるようでいて、分からない。
そこで付加価値のストーリーが要るのです。
「すっごい、耳が聞こえないのに交響曲を
作曲するんですって」・・みたいにね。
普通の平凡な生き方をしつつ世に出るのは
至難のわざ。
目立てばよい、という風潮が蔓延します。
がんばってね。
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