味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

業は勤むるに精しく、嬉しむに荒む。

2015-11-20 10:01:58 | ブログ
第2519号 27.11.20(金)
.
業は勤むるに精(くわ)しく、嬉(たの)しむに荒(すさ)む。行ないは思うに成りて、随うに毀(やぶ)る。『文章軌範』(韓文公「進学解」)
.
 学業は勤めれば勤めるほど精通するが、反対に遊びふけっていればいるほど、荒んでだめになるものだ。また、行状は思慮をめぐらし工夫すればするほどよくなるが、反対に気随気儘にやればやるほどだめになってしまう。519
.
 【コメント】当を得た言葉・訓戒だと思います。怠け者で成績優秀でもなかった私が、何故これほどまでに、学問の世界を逍遥するようになったか、自分でも不思議な位です。一流の人は死ぬまで学び續けるというのを文献で読んだことがありますが、私は三流以下ですけど、倒れるまで学び続けたいと思っています。
.
 それは『南洲翁遺訓』との出会いが齎してくださいました。平井先生と出会い、竹下先生と出会い、そして荘内南洲会の先生方との出会いのお蔭で今日があります。ここまでくれば学問を諦めるということはありません。出来れば小野寺先生方に近づきたいと願っています。
.
 拙著『礼節のすすめ』を出版したとき、小学校五年の時担任をしてくださった女の先生にご贈呈しましたら、味園さんがテーマにするような本であり、貴方はそういうことをする人だと昔から思っていましたと言ってくださいました。昨年お亡くなりになりましたが。
.
 昨夜の御稽古は見事でした。失礼ながら児童クラブの子供たちとは天と地の差があると思います。私の所にくる子供たちの親御さんたちは、何が何でも偏差値向上だけをねがっていないと思います。
.
 これからの長い一生を、真面目に、強く正しく、人生をあやまらないよう、謳歌しかつ人様の御役に立てるようにと、思っているようです。連日の報道で成績優秀であった大人たちが、非違行為に手を染め、懲戒免職になっている事実を私は何時も話しているからだと思います。
.
 私が文献等々の筆写を始めてから半世紀位になります。これほど有意義な学び、遊びはないと思っています。ですから、先般、荘内南洲会の先生方にハガキを出した子供たちに、厭きさせないように導いて行くかが課題であります。
.
 昨夜は拙著『学問と武道のすすめ』頁30、曾子曰はくを何回も大声で読みました。とにかく素晴らし子供たちです。日本国中でこれほど元気よく読み、『南洲翁遺訓』を諳んじる子供たちはいないと思います。それは老人の私の手綱裁きにあるのです。
.
 今まで半世紀近く子供たちに接してきましたが、子供よりか親の方が先にあきらめてしまうようです。でも田上さんは私が死ぬまでついてくるとのことです。そういうお心の素晴らしい子供さんたちのお蔭で、私の心臓は止まることなく鼓動し続けているのだと感謝しています。

---------------------
『臥牛菅実秀』(第57回)
.
 ところが実秀の評判は相変わらず芳しくなかったし、第一に重臣たちで実秀を知っている人がほとんどいなかった。重臣層のすべてが、松平権右エ門や山口三郎兵衛のように家柄とか格式にとらわれずに人材を求めていたのではなかったのである。上士と下士とは同席せずといったやかましい身分制度の上に安坐しているだけであった。この間に立って山口三郎兵衛は機会をとらえては重臣層に実秀の存在を認めさせることに努力していた。
-------------
『論語』(第452)
.
 孺悲孔子を見んと欲す。孔子辞するに疾を以てす。命を将(おこな)ふ者戸を出づ。瑟を取って歌ひ、之をして之を聞かしむ。
.
 孺悲が孔子に面会を求めにきた。孔子は病気だといって断った。取次の者が戸口を出ると、孔子は直ちに瑟を取って弾きこれに和して歌って孺悲にその声が聞こえるようにして、真に病気でないことを知らせた。蓋し警(いまし)めて自ら悟らせようと思ったのである。
--------------
『農士道』(第334回)
.
 山桜の樹を日本国家に譬ふれば、一輪一輪の花びらは、吾等一人一人の日本国民である。山桜の根幹は實に吾が日本天皇----国家の仁にまします。朝日に匂ふ山桜花は、一輪一輪の花が根幹の生命力によって、各々其の分に応じて生命の美を発揮するが、又散るべき時致れば些かの未練もなく潔く散って其の根に帰する。殊に其の散り際の潔きを以て、山桜花たる本性とする。而して是れ実に山桜花の「ひの本」するはたらきであって、吾等日の本にまします大君の御為には、其の一輪一輪の花びらに當る我等一人一人のすべてを潔く捧げ盡す義勇奉公の念の熾烈なること、亦當にかくの如くあるべきである。
-----------

賢を推し能に譲れば、庶官乃ち和す。

2015-11-19 10:40:46 | ブログ
第2518号 27.11.19(木)
.
賢を推し能に譲れば、庶官(しょかん)(すなわち)ち和す。『書経』
.
 上の人が賢者を推挙(すいきょ)し、有能な人に位を譲るという態度でいれば、一般の役人も不平なく安心して調和協力するであろう。217
.
 【コメント】この考え方は『南洲翁遺訓』第一章にもあります。曰く、〈夫れ故真に賢人と認むる以上は、直に我が職を譲る程ならでは叶わぬものぞ。〉とあります。漢籍全般を渉猟した荘内の英邁な先生方が西郷南洲翁の英明さを見抜き『南洲翁遺訓』を刊行したのでした。
.
 『南洲翁遺訓』を広めたい団体は、パフォーマンスでなく、地についた運動を地道に進めて欲しいものです。そして約束したことは、どんな些細なことでも守らなければならないのです。権力で推し進めてはならないのです。そのことを『南洲翁遺訓』は訓戒しているのです。
.
 日本空手道少林流円心会は、門下生に『南洲翁遺訓』を教えて半世紀になります。私が『南洲翁遺訓』を手にしたのは、岳父から戴いたのが最初でした。岳父は枕崎の老人会長をしていました。
. 
 そこに南洲神社で『南洲翁遺訓』の勉強会の主宰をしていた平井政明先生が講演に来たのでした。その講演の御礼に岳父が、平井先生にお礼状を出したのです。平井政明先生として宛名を書いたら、貴方が先生です、と平井先生からの返事が来たのでした。
.
 岳父は自称学者で、明治・大正の文学集等々は凡て読破したという人でした。平井先生と交換した手紙は凡て私の書斎に整理されています。その岳父が、鹿児島で空手道指導をしたいという私に、「君は大学も出ていないので、平井先生に師事して学問をしなさい」といって平井先生が主宰する南洲神社に行くことになったのでした。
.
 その後小野寺先生方が西郷先生の遺徳を訪ねて鹿児島に来るのを聞いて、大坪伸一郎先生とご挨拶にいったのでした。学歴・能力等々ございませんが、荘内南洲会の先生方に対して、阻喪があってはならないというのが、私の考えでした。
.
 あれから荘内へ伺うこと十数回となりました。十年前、前事務長の佐藤昭夫先生と、深夜に肩を組んで荘内の飲食店街を飲んで廻ったのが懐かしく回想されます。
.
 四年前、『南洲翁遺訓』改竄事件が発生しました。一言一句代えてはならない『南洲翁遺訓』改竄事件に鹿児島でも問題視し、そして昨年、元県教育長をされた先生から、全国的な大事件になるのを防がなければならないから、是非、協力して欲しいと懇願され、「西郷南洲顕彰会の伝統及び、西郷南洲翁と菅臥牛翁の徳の交わりを広める会」を結成したのでした。
-----------------
『臥牛菅実秀』(第56回)
.
 この複雑な事態に処して苦慮する老公忠発に菅秀三郎の登用を進言していたのは側用人山口三郎兵衛であった。
 当時、藩政に与(あずか)る者は、家老の子孫か、番頭以上の家柄から出ることが慣例になっており、忠徳の時代に臼井矢太夫が中士から登用されて中老になったのは、唯一つの異例であった。固定した社会では慣例ということが絶対の権威をもっている。したがって小禄の士はいくら俊才であっても、重臣に認められない限り藩政に参画することは不可能であった。

-----------------
『論語』(第451)
.
子曰はく「予言ふ無きを欲す。」子貢曰く「子如し言はざれば則ち小子何をか述べん。」子曰はく「天何をか言ふや。四時行はれ、百物生ず。天何をか言ふや。」
.
 孔子が言うには「わしは今後言語をもって教えを施すことはやめようと思う。」子貢「先生がもし言語をもって教えを施すことをお止めになれば、吾々弟子たちはどうして先生のお教えを伝え述べることができましょう。」孔子「天は何か言うか。何も言いはしないではないか。しかし、春夏秋冬の四時は運行して息まず、鳥獣草木等の百物は発生して已まないのである。天は何か言うか。わしが言語をもって教えを施さなくとも、伝え述べることができるではないか。」
------------------
『農士道』(第338回)
.
 日本精神とは何ぞや。分析と理論とに走る非日本的ことあげを止めよ。日本精神の日本精神的宣揚の先覚的大人、本居宣長翁が快くも明確率直に喝破せる其の大音声を敬聴せよ。曰く、
.
   敷島の大和心を人問はば
          朝日に匂う山桜花

.
と。ああ、如何に透徹せる日本精神の大定義なるぞ。
.
 今こそ日本国民は没我奉仕の「ひの本」精神に目覚め、温故知新の活眼を開いて此の霊音を味読せよ。

---------------
今までモヤモヤしていたものが、吹っ飛んでしまいました。溜飲がさがりました。今日の頽廃は私が電電に入社する前後からでした。
.
 高校出たてで、何も分からない青年たちに、「賃上げ要求をしろ」「上司に挨拶するな」「仕事は大概にしろ」と煽動したのが、前政権で大臣をした男の父親が社会主義協会を唱えた頃からでした。この運動が、北朝鮮みたいに、中国みたいに、バライロの国になるのだと教宣したものです。
.
 貧乏所帯で夜間高校に進んで、自分の力で働いて賃金を戴かないと生活していけない私は、お前らの考えは間違っていると思い、空手道の稽古を始めたのでした。
.
 私が予想したとおり、電電をはじめとする三公社は国民世論によって民営化されたのでした。今朝の読売新聞に、最近勢いのよい政党党首が政策を軟化させるようなことを発言していますが、これは要注意なのです。
.
 やがてこの方々が政府の中枢にきたら、必ず内乱がおこります。その時では遅いのです。文献には認めますが。ブログではこのへんで止めておきます。国体を怠け者たちが代えてはならないのです。菅原先生の『農士道』を読んでください。菅原先生、有り難うございます。

--------

当に人は過ちを同じくすべく、当に人と功を同じくすべからず。

2015-11-18 10:31:38 | ブログ
第2517号 27.1118(水)
.
(まさ)に人は過ちを同じくすべく、当に人は功を同じくすべからず。功を同じくすれば、則ち相忌(い)む。『菜根譚』
.
 仕事をともにして、過ちがあったならば、自分に責任がない場合でも、この過ちの責任は相手の人と分かち合うべきである。
 しかし、反対にうまくいった場合は、その成功はもっぱら相手の人の力だとして譲るがよい。自分の功を主張すれば、往々にしてたがいに怨み、怨まれることになるものだ。570

.
 【コメント】人生を万事、無難に、円満に生きて行く訓戒だと思います。
 西郷南洲翁の漢詩『子弟に示す』の後半に同様の訓戒があります。曰く、
.
 過ちを斉しうしては之を己に沽ひ、
 功を同じうしては是を人に売れ。
.
 人と一緒に過ちを仕出かした場合には、それを自分に買って出て、一人で全責任を負うようにし、
 人と一緒に功を立てた場合には、是を人に売って、自分は其の分け前に与からないようにせねばならぬ。
.
 ある団体から交流会に参加させてほしいと懇願され、一献傾けることになりました。ところがその団体の機関誌には、さも自分たちが企画しにぎにぎしく開催したやに報告されていました。『南洲翁遺訓』を学ぶやに伺っていますが、南洲精神は何もわかっていないな、と思った次第でした。
 誰が、どのように理解し、運営しようが自由であります。そういう団体と意見の衝突をみないためにも、日本空手道少林流円心会は半世紀の実績を踏まえ、五条訓に謳ってあるように、子供たちを清廉にして強固な信念を構築すべく邁進したいと思います。
.
 これが菅原兵治先生が説く、『農士道』に云う、大和の武士道の「ひの本」精神なのであります。かくて我等日本国民が、生命の根原として身を呈して奉仕する対象は国民としての自覚であり、以て仁を成す「日の本」の民なのであります。
.
 それが西郷南洲翁の漢詩『獄中感有』の末尾に云う「願はくは 魂魄を留めて皇城を護らむ」という精神に収斂されるのです。

--------------------
『臥牛菅実秀』(第55回)
.
 このころ荘内藩では品川五番台場の警備から転じて蝦夷地(北海道)警備の困難な任務に当っていた。これはますます積極化してくるロシアの南下政策に脅威を感じた幕府がとった防衛策で、荘内藩では蝦夷地西海岸の拝領地四十里余、警備地六十里余、合せて百里を越える海岸線の警備と、移民開拓の両面の任務を負うていた。ここは当初、越冬も危ぶまれた寒冷地体だけに、その辛労もまた大きかった。 .
 当時、日本は北蝦夷(カラフト)千島まで勢力を伸ばしていたが、ロシアは、それを追いはらって蝦夷地まで進出しようとしていたし、イギリスはイギリスで世界にまたがる大帝国の勢力範囲に日本をとりこみ、極東の前進基地にしようとしていた。このようにひしひしと迫ってくる列強の圧力に日本は烈しく揺れ動き、朝廷と幕府をめぐって尊王攘夷論と公武合体論の勢力は幾たびか変転した。

---------------------
『論語』(第450)
.
 子曰はく、「紫の朱を奪ふを悪む。鄭声の雅楽を乱るるを悪む。利口の邦家を覆す者を悪む。」
.
 孔子が言うには、『間色たる紫がそのなまめかしさの故に正色の赤を圧倒することがにくむべきと同様、鄭国の俗楽が耳に入りやすきが故に先王の正楽を混乱し、多弁の侫人が君にへつらい善人を陥れて国家を危うくするは、にくむべき極みである。』
.
 連日、NHKをはじめ民報でも、「二歳児にタバコをすわせた。男女の殺し合いがあった。強盗事件があった。」と競って視聴率稼ぎの報道をしていますが、結果的にこれらが、事件を助長しているように思えるのですが、如何でしょう。
 もう少し、教養番組を編成して欲しいと思うのは私だけでしょうか。
.
 私は普通の方がには極めて堅いと思われるであろう漢籍の言葉を標題にして、ブログを綴っています。フェイスブックにしたらという親切なご提案もあるのですが、とにかく多忙なために、独り言を行っているようなものです。それは自らが学ばなければならないという考えに基づいています。
 これを見て下さった方とのご縁に感謝致します。

-------------
『農士道』(第332回)
.
 この果実が一度地中に入って発芽する時の状態を見るに、外側の皮も肉も皆其の身を殺して、中なる生命力の根元たる「仁」の育成に参賛奉仕する。換言すれば杏の種子の発芽に於て吾々はいみじくも「身を殺して以て仁を成す」のはたらきを見る。仁とはかくの如く、生命の根原(本)であり、一切の枝葉的存在のものが、其の身を殺して奉仕参賛する感激の対象である。かくて我等日本国民が、生命の根原として身を殺して奉仕する対象は実に大君であり、随ってその大君の御名を何仁(ひと)親王と申し上ぐることは、「ひの本」の国として実に有難くも嬉しきことの極みではないか。吾等日本国民は、実にこの至上の感激を以て、この日本国家の「仁」にまします大君に奉仕して、身を殺して以て仁を成す「日の本」の民なのである。
--------------

千歳を観んと欲すれば、則ち今日を審かにせよ。

2015-11-17 10:08:58 | ブログ
第2516号 27.11.17(火)
.
千歳(せんざい)を観(み)んと欲すれば、則ち今日を審(つまびら)かにせよ。『荀子』
.
 遠い将来のことを知ろうと思うなら、まず今日のことを明確に知るがよい。388
.
 【コメント】まさしく仰せのとおりだと思います。連日ブログを綴っていますが、急激な世上の変化に人々は惑い、困惑し、生きる真の喜び・楽しみをなくしてしまうのではないかと考えています。
.
 人間の真の幸せは、『南洲翁遺訓』を座右に置き、我が物として日々に活用することだと思います。『南洲翁遺訓』との出会いのお蔭で鹿児島の多くの先生方から『南洲翁遺訓』ほど素晴らしいものはないから、味園さん是非子供たちに教え広めてくださいと懇願されました。あれから40年が経過しました。
.
 西郷隆盛だけを書き続けた元西郷南洲顕彰会理事長・鮫島志芽太先生、館長・児玉正志先生、詩吟道師匠・竹下一雄先生他多くの先哲の先生方からでした。
.
 青少年を含めた暴行、窃盗、異性交遊等々の事件は何時の時代でもあることなのですが、今日ほど多様化し増加しているのは珍しいのではないでしょうか。だから私は、老骨に鞭打って生涯の仕事として奮闘しているつもりでございます。 
.
 今朝のテレビ報道で、道行く人々の多くが、「歩きスマホ」と言って、前は見ずに手に持ったスマホ等々を見乍らあるいている状況が紹介されました。あまり深く考えずに、なんとなくみちゃったという感じの人が多かったようです。このような方々が家庭を持ち、子供が生まれ、成長していく過程において、素直にしてお利口な子供が育つものでしょうか。昔ながらの大和の文化を身に着けてしあわせに生きていけるのでしょうか、疑問なしとしません。
.
 私の道場で週に一回、空手道と『南洲翁遺訓』を学んでいる子供たちは、それはそそれは立派です。そういう子供ちを育てたいとして、半世紀に亘り、空手道をはじめとする格闘技、そして日本舞踊等々多くの芸事を学んできました。
.
 今、世界はフランスをはじめ大変な状況にあります。このような不安定な時だからこそ、世界の人々に範たる生き方を示す時ではないでしょうか。
.
 あの難解な『南洲翁遺訓』の神髄を人々に解説するのは、知的に乏しい私には不可能かもしれませんが、これから育って行く青少年にはそのさわりを教えることは出来ると信じています。
.
 今こそ西郷南洲翁が菅臥牛先生に提示した、「堯舜をもって手本とし、孔夫子を教師」とすべき時代なのではないでしょうか。
 北海道南洲会の工藤先生、昨日お手紙を投函しました。これから、荘内南洲会で教室を開いている中沢先生方と共に『南洲翁遺訓』の教宣に尽力していきたいものです。

--------------
『臥牛菅実秀』(第54回)
.
 忠寛は翌文久三年(一八六三)三月に予定されている将軍家茂の上洛に供奉を命ぜられていたのであったが、荘内に入ってわづか数カ月で鶴ケ岡城で病んで没した。享年二十四才であった。このころは時代そのものも大きく転変していたが、荘内藩にも転変は多かった。
 この年、文久二年の暮れ、忠発の三男忠篤は、わづか十才で風雲ただならない時代の藩主となった。すでに隠居していた忠発は、老公として幼い藩主をたすけて多難な藩政を見なければならなかった。時代は忠発に風月を楽しむ閑暇を与えなかったのである。

-----------------
『論語』(第449回)
.
 子曰はく、古は民三疾あり。今や或ひは是れ亡し。古の狂や肆、今の狂や蕩。古の矜や廉。今の矜や忿戻。古の愚や直。今の愚や詐のみ。
.
 孔子が言うには、『昔の人に、狂・矜・愚の三癖があったが、其癖さへも今では堕落してしまった。狂は気位が高過ぎることで、昔の狂は小節に拘泥せぬ程度だったが、今の狂はでたらめである。矜はおのれを持することが嚴に過ぎることで、昔の矜は物事に角が立つのだったが、今の矜は強情我慢である。愚はすなはち馬鹿だが、昔の愚は馬鹿正直であり、今の愚は馬鹿ずるいのじゃ。』
---------------
『農士道』(第331回)
.
 然らば我々日本人はこの奉仕参賛の対象を何に求むべきか。日本国家に於ては申すまでもなく、吾等「ひの本」国民の没我奉仕すべき対象は日本天皇にまします。此事に就て亦深く考えて見たいことがある。そは何か、畏れおほき事ではあるが、日本天皇の御名に多く「仁」の字を用ひさせ給ふことである。仁とは生命の根原を謂ふ。漢法医学の用語によれば、果実の最も中なる胚子を「仁」と呼ぶ。(杏仁は解熱剤として用いられる)外側には美しい果皮があり、其の中には甘き果肉があり、其の中に堅き核があり、而して最も中心の處に胚子(即ち「仁」)がある。
----------------

衣裳を垂れて、天下治まる。

2015-11-16 09:38:11 | ブログ
第2515号 27.11.16(月)
.
衣裳を垂れて、天下治まる。『易経』
.
 天子がただ衣裳を垂れる、つまり威儀をととのえているだけで、よく治まっている。
 無為の善政をいう。乾坤易簡の道にのっとった黄帝、堯、舜の治世を指す。239

.
 【コメント】『易経』の言葉だけであれば大したものだと思います、実は、ここまで来るには、上に立つ人、為政者が善政を布くための工夫があったということです。長年漢籍を繙き、治世が素晴らしい処は、それなりに上に立つ人が学問によって自らを修め、天下万民を大切にしたということだと思います。
.
 13日のブログでご紹介した『臥牛菅実秀』の所で、忠恕公が「『資治通鑑』294巻を愛読して人物を観る眼を養って」とご紹介しましたが、こういう学問への直向きな土壌が『名君忠徳公』の英邁な藩主の誕生につながったのではないでしょうか。
.
 このような史実があるのに世の多くの人々は、少しでも学ぼうとしないのでしょうか。そして過去の総てを捨て去ろうとしたのでしょうか。これらは、世界に誇る大和の文化だと思うのですが。
.
 前政権時代、環境大臣であった御仁が、欧州ではそうだったという発言をしました。所謂、日本とは違うということを力説しました。それを聞いた私は、それは違うのです、とテレビに向って言ったことがありました。
.
 天は、それぞれの国に、それぞれの文化等々を与えたのです。現在私がご紹介している『農士道』でも、菅原兵治先生が著書の中で証明しています。
.
 そしてシリア周辺の人々は、民族大移動を致しました。こういうのは過去にもあったことなのです。難民受け入れについて日本は冷たいとか種々議論されていますが、『文芸春秋』十二月号に作家・曽野綾子氏が「難民受け入れは時期尚早だ」と自論を展開しています。傾聴に値する提言だと思います。こういう論理は「民主」を叫んでいる政治家諸氏には理解できないでしょう。

--------------
『臥牛菅実秀』(第53回)
.
 こうした大きな時代の起伏を、実秀はどのように受け止め、どのように考えていたかは、残念ながら、それを知る手がかりはない。
 文久元年(一八六一)に忠発は隠居して家督を世子忠寛に譲った。忠寛は翌二年の初夏、十二代藩主として始めて国入りするために江戸を発し、清水駅(山形県最上郡)から船で最上川を下って行った。
 出迎えの役人が左岸の山を指さして
「これより荘内領でございます」
と説明したとき、忠寛は切り立った最上峡の山々を仰ぎながら
.
 わが国の境と聞けば草も木も なお余所ならぬ色にぞありける
と歌った。

--------------
『論語』(第448)
.
子曰はく、鄙夫(ひふ)は与(とも)に事ふべけんや。其の未だ之を得ざるや、之を得んことを患ふ。既に之を失はんことを患ふ。苟も之を失はんことを患ふれば至らざる所なし。
.
 孔子が言うには、『人格下劣のともがらとは、到底一緒にご奉公できぬ。まだ官職権勢を得ない間は、それを得ることばかり心配し、一旦それを得ると、これを失うことばかり心配する。そしてこれを失うことを心配する以上、目的は手段を選ばず、地位保全のためにはどんなことでもし兼ねないのだ。』
----------------
『農士道』(第330回)
.
 これに対して「ひの本」作用は、譬えば犀と千曲の両川が合流して信濃川になって了へば、早川や犀川と千曲川との区別が無くなって了ふと同様に、自他彼比の対立が無くなって了ふ。換言すれば没我を其の特徴とする。没我とは、より大いなるもの(大我)の為に、対立的なる小我を捧げ盡して奉仕することである。此の没我奉仕こそ、實に「ひの本」精神の神髄である。
 以上「ひの本」原理と「ひの末」原理との要点を表記すれば次の如くになる。
.
 「ひの末」 分裂  我執・排他
.
 「ひの本」 綜合(大 和) 没我・奉仕

.
 (註)「奉仕」といふ言葉を他の語を以て言へば参賛といふ語に當る。参ずるとは「神参り」「お寺参り」等の御参りの意味で、己よりも大いなるもの、高きものに詣る謙虚なる態度である。奉仕とは、其の参る対象たる大いなるもの(神、君、親等)に参り仕えるの意であって、参賛の語と其の内容を全く一にするものである。
---------------