第2515号 27.11.16(月)
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衣裳を垂れて、天下治まる。『易経』
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天子がただ衣裳を垂れる、つまり威儀をととのえているだけで、よく治まっている。
無為の善政をいう。乾坤易簡の道にのっとった黄帝、堯、舜の治世を指す。239
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【コメント】『易経』の言葉だけであれば大したものだと思います、実は、ここまで来るには、上に立つ人、為政者が善政を布くための工夫があったということです。長年漢籍を繙き、治世が素晴らしい処は、それなりに上に立つ人が学問によって自らを修め、天下万民を大切にしたということだと思います。
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13日のブログでご紹介した『臥牛菅実秀』の所で、忠恕公が「『資治通鑑』294巻を愛読して人物を観る眼を養って」とご紹介しましたが、こういう学問への直向きな土壌が『名君忠徳公』の英邁な藩主の誕生につながったのではないでしょうか。
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このような史実があるのに世の多くの人々は、少しでも学ぼうとしないのでしょうか。そして過去の総てを捨て去ろうとしたのでしょうか。これらは、世界に誇る大和の文化だと思うのですが。
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前政権時代、環境大臣であった御仁が、欧州ではそうだったという発言をしました。所謂、日本とは違うということを力説しました。それを聞いた私は、それは違うのです、とテレビに向って言ったことがありました。
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天は、それぞれの国に、それぞれの文化等々を与えたのです。現在私がご紹介している『農士道』でも、菅原兵治先生が著書の中で証明しています。
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そしてシリア周辺の人々は、民族大移動を致しました。こういうのは過去にもあったことなのです。難民受け入れについて日本は冷たいとか種々議論されていますが、『文芸春秋』十二月号に作家・曽野綾子氏が「難民受け入れは時期尚早だ」と自論を展開しています。傾聴に値する提言だと思います。こういう論理は「民主」を叫んでいる政治家諸氏には理解できないでしょう。
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『臥牛菅実秀』(第53回)
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こうした大きな時代の起伏を、実秀はどのように受け止め、どのように考えていたかは、残念ながら、それを知る手がかりはない。
文久元年(一八六一)に忠発は隠居して家督を世子忠寛に譲った。忠寛は翌二年の初夏、十二代藩主として始めて国入りするために江戸を発し、清水駅(山形県最上郡)から船で最上川を下って行った。
出迎えの役人が左岸の山を指さして
「これより荘内領でございます」
と説明したとき、忠寛は切り立った最上峡の山々を仰ぎながら
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わが国の境と聞けば草も木も なお余所ならぬ色にぞありける
と歌った。
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『論語』(第448)
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子曰はく、鄙夫(ひふ)は与(とも)に事ふべけんや。其の未だ之を得ざるや、之を得んことを患ふ。既に之を失はんことを患ふ。苟も之を失はんことを患ふれば至らざる所なし。
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孔子が言うには、『人格下劣のともがらとは、到底一緒にご奉公できぬ。まだ官職権勢を得ない間は、それを得ることばかり心配し、一旦それを得ると、これを失うことばかり心配する。そしてこれを失うことを心配する以上、目的は手段を選ばず、地位保全のためにはどんなことでもし兼ねないのだ。』
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『農士道』(第330回)
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これに対して「ひの本」作用は、譬えば犀と千曲の両川が合流して信濃川になって了へば、早川や犀川と千曲川との区別が無くなって了ふと同様に、自他彼比の対立が無くなって了ふ。換言すれば没我を其の特徴とする。没我とは、より大いなるもの(大我)の為に、対立的なる小我を捧げ盡して奉仕することである。此の没我奉仕こそ、實に「ひの本」精神の神髄である。
以上「ひの本」原理と「ひの末」原理との要点を表記すれば次の如くになる。
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「ひの末」 分裂 我執・排他
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「ひの本」 綜合(大 和) 没我・奉仕
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(註)「奉仕」といふ言葉を他の語を以て言へば参賛といふ語に當る。参ずるとは「神参り」「お寺参り」等の御参りの意味で、己よりも大いなるもの、高きものに詣る謙虚なる態度である。奉仕とは、其の参る対象たる大いなるもの(神、君、親等)に参り仕えるの意であって、参賛の語と其の内容を全く一にするものである。
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衣裳を垂れて、天下治まる。『易経』
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天子がただ衣裳を垂れる、つまり威儀をととのえているだけで、よく治まっている。
無為の善政をいう。乾坤易簡の道にのっとった黄帝、堯、舜の治世を指す。239
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【コメント】『易経』の言葉だけであれば大したものだと思います、実は、ここまで来るには、上に立つ人、為政者が善政を布くための工夫があったということです。長年漢籍を繙き、治世が素晴らしい処は、それなりに上に立つ人が学問によって自らを修め、天下万民を大切にしたということだと思います。
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13日のブログでご紹介した『臥牛菅実秀』の所で、忠恕公が「『資治通鑑』294巻を愛読して人物を観る眼を養って」とご紹介しましたが、こういう学問への直向きな土壌が『名君忠徳公』の英邁な藩主の誕生につながったのではないでしょうか。
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このような史実があるのに世の多くの人々は、少しでも学ぼうとしないのでしょうか。そして過去の総てを捨て去ろうとしたのでしょうか。これらは、世界に誇る大和の文化だと思うのですが。
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前政権時代、環境大臣であった御仁が、欧州ではそうだったという発言をしました。所謂、日本とは違うということを力説しました。それを聞いた私は、それは違うのです、とテレビに向って言ったことがありました。
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天は、それぞれの国に、それぞれの文化等々を与えたのです。現在私がご紹介している『農士道』でも、菅原兵治先生が著書の中で証明しています。
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そしてシリア周辺の人々は、民族大移動を致しました。こういうのは過去にもあったことなのです。難民受け入れについて日本は冷たいとか種々議論されていますが、『文芸春秋』十二月号に作家・曽野綾子氏が「難民受け入れは時期尚早だ」と自論を展開しています。傾聴に値する提言だと思います。こういう論理は「民主」を叫んでいる政治家諸氏には理解できないでしょう。
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『臥牛菅実秀』(第53回)
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こうした大きな時代の起伏を、実秀はどのように受け止め、どのように考えていたかは、残念ながら、それを知る手がかりはない。
文久元年(一八六一)に忠発は隠居して家督を世子忠寛に譲った。忠寛は翌二年の初夏、十二代藩主として始めて国入りするために江戸を発し、清水駅(山形県最上郡)から船で最上川を下って行った。
出迎えの役人が左岸の山を指さして
「これより荘内領でございます」
と説明したとき、忠寛は切り立った最上峡の山々を仰ぎながら
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わが国の境と聞けば草も木も なお余所ならぬ色にぞありける
と歌った。
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『論語』(第448)
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子曰はく、鄙夫(ひふ)は与(とも)に事ふべけんや。其の未だ之を得ざるや、之を得んことを患ふ。既に之を失はんことを患ふ。苟も之を失はんことを患ふれば至らざる所なし。
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孔子が言うには、『人格下劣のともがらとは、到底一緒にご奉公できぬ。まだ官職権勢を得ない間は、それを得ることばかり心配し、一旦それを得ると、これを失うことばかり心配する。そしてこれを失うことを心配する以上、目的は手段を選ばず、地位保全のためにはどんなことでもし兼ねないのだ。』
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『農士道』(第330回)
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これに対して「ひの本」作用は、譬えば犀と千曲の両川が合流して信濃川になって了へば、早川や犀川と千曲川との区別が無くなって了ふと同様に、自他彼比の対立が無くなって了ふ。換言すれば没我を其の特徴とする。没我とは、より大いなるもの(大我)の為に、対立的なる小我を捧げ盡して奉仕することである。此の没我奉仕こそ、實に「ひの本」精神の神髄である。
以上「ひの本」原理と「ひの末」原理との要点を表記すれば次の如くになる。
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「ひの末」 分裂 我執・排他
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「ひの本」 綜合(大 和) 没我・奉仕
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(註)「奉仕」といふ言葉を他の語を以て言へば参賛といふ語に當る。参ずるとは「神参り」「お寺参り」等の御参りの意味で、己よりも大いなるもの、高きものに詣る謙虚なる態度である。奉仕とは、其の参る対象たる大いなるもの(神、君、親等)に参り仕えるの意であって、参賛の語と其の内容を全く一にするものである。
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